連載記事2026/05/07
アーティストの主張
花咲 愛実・【エッセイ】家族の人生と自分の原点を見つめ直す時〜39回目のありがとう〜
Spinart(スピナート)が主にTwitterで募集する「アーティストの主張」。
さまざまな活動をするアーティストさんたちの主張をガンガンご紹介していきます。
「ア...
私は、今。
自己理解を目的として、自分の過去や、家族の生き方はどうであったのかをよく考えるように「生き方の学び」をしている。
本記事は、私と母。
そして、大切な家族史として、纏めたものである。
祖父母は、80歳を過ぎるまで約40年もの間「焼肉店」を営んでいた。本当に働き者の2人であった。私には到底真似の出来ない、「努力」と「忍耐」、そして…「思いやり」を持った素晴らしい2人だった。
祖父は、慢性腎不全を若くして患い、命も危なかった母に、腎移植をした。自分の身体を、娘を守る為に差し出した「勇気と愛情のある人間」だった。
そのお陰で…今、私は「生きている」のだ。
しかし、残念なことに、母は移植から約10年程でこの世を去った。
祖父は、お店のレジ横に「福祉善意の竹筒」と書いた募金箱を置き、毎年「亡き娘が、病で困った時に市から障害者援助をして貰ったお礼。娘も寄付を望んでいるはず。」として、市へ寄付をしていた。
「娘がお世話になった。感謝をしている。今度は今、病気や障害で苦しむ方々へ、少しだが寄付金を届けたい。」と語っていた。
それを、何十年と続けた。
きっと。母も、望んでいたと思う。芯は強いが、とても優しい母だったが故に。
祖母は、母が亡くなり1ヶ月寝込んだ。
しかし、それ以降は明るくて、笑顔の絶えない、誰に対しても、穏やかで優しい祖母だった。
しかし、祖母が亡くなり遺品整理をしていた時に、日記が見つかった。
母が亡くなった日付けの日記には、一言。
こう綴られていた。
「生きていて、こんなにも、悲しい日があるなんて。知らなかった。」と。
その後、祖父は90歳で。
祖母は91歳で。
この世を去った。
長生きをしてくれて、本当に嬉しかった。しかし、別れは愛している程に、つらいものである。
「じぃちゃん。
ばぁちゃん。
本当に、ありがとう。」
今でも。まだ、ふらっと家に立ち寄れば。
「はーい。めぐちゃんけ?上がりなぁ。」
と、2人が迎えてくれそうな…。
そんな気がしてならない。
母は、若い時から重い慢性腎不全を患っていた。週に数回、仕事帰りに何時間も透析。
その繰り返しだったようだ。
それでも。「結婚して子どもが欲しい。」と願っていたらしい。しかし、当時の医学ではなかなか難しかった。それどころか、命さえも落としかね無い状況になった。
そして当時、腎移植を得意としていた「日本赤十字社愛知医療センター名古屋第二病院」で、腎移植をする事になった。
奇跡的にも、祖父(母の父)の腎臓が移植可能であると診断がくだり、昭和59年に腎移植。
その時は、既に父と交際していたが祖母から、こっそりと。
「命が助かるかも、分からない。娘の事は忘れて…。別れてもいいんだよ。」と言われたらしい。しかし、父は別れを選ばず、ずっと母を支えて居た。
そして…。
移植は無事に成功。
しかし、腎移植をした母は、頻繁に病院へ通院したり、高い薬代を払わざるを得ない状態だった。
だが、それさえも支え続けて居たのは父であった。
そして、移植から約1年後。
2人は結婚した。
更に運が良いことに、免疫抑制剤の新薬の認可、使用許可が降り、母の体調と免疫抑制剤「シクロスポリン」により、医師から、「妊娠を目指しても良い」との診断が出た。
そして、許可からなんと2ヶ月で妊娠。
37週目、1987年5月7日に私を命懸けで産んでくれた。
私は生まれて1ヶ月は母と病院で過ごしたらしい。私には健康上の問題はなかった。ただ、母乳は母が薬を飲んでいた為、一度も飲めず完全ミルクだったそうだ。
母は出産後、3ヶ月入院した。それ程までに大変な「妊娠、出産」だったのだろう。
そして、私の出産、母の入院費は当時で200万円掛かった。それも全て父が払った。
母にも、父にも。
そして母が退院するまで、私の面倒を見ていてくれた祖父母と叔母に感謝でいっぱいだ。
それからも母は、定期的に日赤に通わなくてならなかった。薬代は当時でも1ヶ月、約10万円。それも父が払い続け、往復4時間の道のりを送迎していた。
私も幼いながらに、母に連れられ、病院へ行っていた記憶がある。
そうして、定期的に予後を診て頂いて居たのだが…。
母は、私を産んでから7年後に、35歳という若さでこの世を去った。
とても寒く、雪の降る静かな夜だった。
原因となった病気は、当時世界で3例目という病気だった。病名は英語で、父が説明を受けたそうだが、おそらくショックも重なり「覚えていない。」と言っている。
母は分かっていたと思う。当時の医療では、腎移植をしても15年〜20年しか生きられなかったという話しも聞いている。(※私には医学知識はございません。また30年以上前に聞いたものです。こちらの情報は信頼をせずにいてくださいますようお願い致します。)
それでも。
「子どもを産む!」という決意は固く、強い芯のある女性であった。
私は、命を絶とうとした事が、今までに何度かあった。
そんな時、泣きながら父が話してくれた。
「お母さんはな…。人生の半分を病院で過ごした様な人だった。だけどな。どんなに、苦しくても、辛くても…。『死にたい』なんて一度も口にした事は、無かったぞ。だから…死にたいなんて言うな。」
「…例え。例え、いくら、お金をたくさん持って、お店に行ったとしても。人の命だけは…売ってないんだ。悔しいよ…。」と、声を詰まらせていた。
「○○(私の娘)の、運動会に行って初めて、めぐの作ったお弁当を皆で食べた時。…あぁ、幸せだなぁと思ったよ。無理だと言われていた子供(私)まで出来て、…それから、孫の顔まで見れた。…そんな、当たり前の事が嬉しかったんだ。」と、言ってくれた。
私はこれからも、ずっと。その言葉を、決して忘れないと思う。
父は、母を亡くして一番崩れた人だった。
母の保険金を使いまくって、遊び歩き、仕事を辞め、家に居た記憶もあまり無い。私の面倒は、祖父母や叔母が見てくれていた。
でも、今は違う。
私が困った時にはいつも助けてくれる。
病を患ってからは娘の用事や、私の外出や病院への付き添い。何時間でも、嫌な顔ひとつせず、診察が終わるのを待って居てくれたりもする。
幼い頃は、堕落していく父が大嫌いだった。
でも、今は…。
「何故、母が父を選んだのか。」が分かる気がしている。
私の心の中に、「優しさ」があるとすれば、それはきっと。父がくれたプレゼントだと、今は思っている。
私は、この母と父の子供に生まれて、良かったとようやく思えるようになった。
もし、また生まれ変わっても、2人の子供として生まれてきたいと思っている。
父は、母を失い。
とてつもない哀しみに負け、堕落した人間になったが、過ぎていく時間の中で、今は「優しさと愛情」をくれる本来の父に戻った。
そして、「若い頃は娘にしてやれなかった事を今は、孫にしてやりたいんだ。」と言ってくれている。
母を亡くしてからの私は、外では「哀しみ」や「涙」を一切、見せず明るいフリをして生きてきた。
それは、たくさんの人達が私の事を「哀れみの目で見ている」と感じたからである。
私が泣けば、家族や事情を知る人から「可哀想」と余計に思われ、心配や苦しみを増幅させてしまうと、強く心に思ったからである。
しかし本心では、語ることの出来ない程の孤独と苦しみ、哀しみ。
そればかりであった。
それでも、必死に母の死と向き合い生きた。有り難いことに、「大切な人を亡くした苦しみを友達や親類」が助けてくれた。
私はたくさんの方々に育てて頂いたのだ。母の代わりに大切にしてくれていたと感じている。
何故か昔から、文章を書く事が好きだった。
他に取り柄は、一切無いと思う。
そして、中学2年の時には「忘れない」というタイトルで、「母の死」と向き合った作文を書いていた。
この作文は、地域の文集に掲載された。
書いた記憶は確かにあった。しかし、なにせ24年も前の作文。内容はすっかりと忘れて居た。
掲載元様を訪ね、コピーの許可を頂き、改めて読み返した。
そこには、まるで「未来予知」のような文章があった。
それを目にし1人、号泣してしまった。
14歳の私が、24年もの歳月を掛け、38歳となった私にまるでエールを送っているかのような内容だった。
その記事の、一部が下記のものだ。
(原文、そのままです。)
『そして最近は、苦しいことも悲しいことものりこえていくんじゃなくて、かかえて生きていけばいいと思うようになって、苦しいことも悲しいことも全部自分が生きるパワーにできたら私はきっと強い人間になれるんじゃないかと信じたいと思っている。
私には将来なりたいものも、やってみたいこともないけど、人の命や、人を思う気持ち、家族の大切さを一人でも多くの人に伝えたい。
私は人に何かを伝えるために産まれて、そのために母と別れたのなら、母の死は決して悲しいものではないと思う。
私が、私の立場で、私にしかできないことを、見つけてだれかのために伝えていけるようになれたらいいと思う。
そしてこれからの私の願いは、祖父のように人を思いやる気持ちや、自分の体験した悲しい気持ちをいつも、いつまでも忘れない人間になることだ。
そして、心から優しさのある人間になりたいと今は思う。
それは、母の死が私にとって意味のないことにならないようにするためでもあるのだから。』
まさに今、私が踠きながらも挑戦を続けている活動そのものであった。
本来この年代の人間であれば、「将来の夢」=「職業」を書くと推測する。
しかし私は、『なりたいものも、やってみたいこともない』と書き、職業ではなく「人物像」を提していたのだ。
病にならなければ私は、「言葉、文学の世界」で生きようとは思ってもいなかった。
しかし、病によって「自分が本当に好きで、やりたい事」を認識することが出来たのだ。
そして、自分や家族の思いをもう一度、たどった時…。
「やはり、言葉の表現者でありたい。」
と、強く再認識をした。
私は、母の死を受け入れ、「心からの言葉を表現する芸術家」になろうと、ようやく「夢」を見つけて生きている。
母の死後。
遺された私達家族は、それぞれの生き方を模索し始めた。
言葉では言い表せない感情を1人1人が持ち、必死に深い哀しみの中を、きっと他人からは見えない場所で、慟哭を繰り返し生きていたのだと感じる。
祖父は、やり場の無い悔しさを感謝と寄付で今、病を患っている人へと、「思いやりと恩返しに変えて生きた人」であった。
祖母は、深い深い哀しみや苦しみに、蓋をして「誰にでも優しく、明るく笑顔で生きた人」だった。
父は、誰よりも傍で母を支え続けた素晴らしい男性であったが母を失い、とてつもない、「孤独に負け堕落した人」だった。しかし、過ぎてゆく時間の中で、今は「優しさと愛情」をくれる本来の父に戻った。
そして私は、母の死を胸に抱えたまま…。
「心からの言葉を表現する芸術家になろう。」と、ようやく夢を見つけて生きている。
人が、1人亡くなる事は。
遺された者達にとって、その人生をも変えてしまうと感じる。
私はずっと、自分の人生の殆どを憎んで生きてきた。
しかし今は、「それさえも、個性にしてしまおう。」と静かに思う。
母が命を掛けて、…いや、家族の皆が「愛」を持ち接してくれたこと。
無駄には、出来ない。忘れてはいけない。深い愛情を…。
だからこそ。
私は、日々。
泣いたり、怒ったり、悔やんだり、喜んだりしながら永遠に…。
愛情と優しさのある、「言葉の花束」を人々に届け続けることをこれからも、辞めないであろう。
それは、私自身にとってのセルフセラピーでもある。
2026年5月7日。
たくさんの花を用意して。
39回目の「ありがとう。」を…。
今年もまた母に伝える。
【花咲 愛実】
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アーティスト紹介・花咲 愛実
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