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Logo Mark歯を磨く様に演じる私、芝居を仕事にしようかな

鵜飼雅子

舞台役者、朗読家、アトリエほんまる 副支配人。
日本演劇教育のさきがけ的な存在である劇団らくりん座の正式団員として全国各地で公演を経験。
朗読や表現、コミュニケーショ...

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普通というか、一般に大人になって劇団に入ってくる人達は、学生時代から演劇部に入り、芝居に打ち込んでいる人達だと思う。だって、学校を卒業してまで芝居をやろうと思ってんだから。だから、私と違って、劇団に入って1本目の芝居でも、緞帳にひかれそうになったりはしない。私はひかれそうになった。初めての経験でした…。恐らく劇団の先輩達にとっても、そんな人は見たことはなく、初めての経験だったと思う。その時は既にお金をもらって芝居をしていました。つまりプロの役者だったわけです。
なぜ芝居をやろうかと思ったかは、大学を卒業して、当時、バブル時代だったので同期の子達は、いくつも会社から内定をもらっていましたが、私はマスコミ、それもアナウンサー職しか受けなかったので、地元のケーブルテレビのみの内定。でもなんだかそれもしっくりこず、先方の数回にわたるラブコールにもお応えできず、結局1年間就職せずして、名古屋市からはるばる栃木県の商業劇団に来たのです。
母には「あんたは、なんでそんな、道なき道を行くんだい。あんたにかかったお金、全部返しなさい。」と言われ、「あたし! 夜の世界で働かないと返せない。」と思った時も有りました(笑)。そりゃそうですよね。親にすれば、私立大学に行かせ、大学を休学させ、留学もさせたんですから。もちろん休学中もいいお金、大学に払っているんだから。
本当は、大学時代、芝居をやってみたかったんです。そしてやっている先輩を見て「いいなぁ。わたしもやりたいなぁ。」と陰で思っておりました。けれども、ある指導者から「お前は芝居は向いていない。」と言われ、それに反抗することもできず、モヤモヤした日々を過ごしていました。
それでも劇団に入る事は、自分にとって、物凄く思い切ったことではなく、なんとなく普通に会社に就職するのは嫌で、なんとなく細々とずーっと芝居がやってみたくて、芝居でお給料がもらえる劇団がある事を知り、探し始め、なんとなく感じ、そして行動した結果なのです。情熱的に“絶対劇団に入るぞ!” “役者でなんとしても頑張るぞ!”ではなかったです。しかし、性格的に物事をやり出すと止まらないたちで、まず集中してしまったのが、劇団を探す行為、この行為事態に熱中してしまって…、日本中で私でも入れてくれそうな劇団に電話をかけまくっているうちに、目の前には劇団に進む一本道しか見えなかったわけです。
それでも、私には劇団を選ぶ条件がありました(今思うと、私みたいなド素人に劇団を選ぶ権利があるのか?と思うんですけど)。
(1) アルバイトをせず、芝居で食べていけること。
(2) 1年に必ず1本以上新しい芝居を作る事。
(3) 一班しかないこと(旅公演班とその地域を回る班と別れている劇団がある)。
この理由は、芝居のスタートが遅いので、出来るだけ芝居と旅公演を沢山経験したかったのです。芝居って、1本作ると、ものすごくお金がかかっていて、それを回収する為に公演を繰り返すわけです。ある劇団は、3年に1本しか芝居を作らない。またある劇団は6年に1本しか芝居を作らない。そんな劇団は10年在籍しても、数本しか芝居ができないわけです。
また、よく聞かれるものに「東京へは行こうと思わなかったの?」と言う質問があります。20代前半の私は、今よりも“自分の限界を自分で決めていて”、東京へ行って、もし劇団に入れたとしても、アルバイト生活で終わっちゃうんだろうなと考えていました。
そんな結果、遠路はるばる愛知県名古屋市から、栃木県那須郡塩原町(当時)に来てしまったわけです。
JR西那須野駅に着いた時は、驚きましたよ。本当にここで芝居生活が始められるのだろうかと不安にも思いました。だって駅前なのにあまり栄えたところがなく、人通りも少なかったのです。そして迎えに来てくださった先輩が「案外都会でしょ。」と言ったセリフに、どう返していいか、わからなくなったのを今でも覚えています。

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鵜飼雅子

舞台役者、朗読家、アトリエほんまる 副支配人。
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