2020/06/20
『石の上にも3年。』いやいや、3年じゃまだまだでしょう。
私の劇団生活1年目は、多人数の観客の観ている舞台に立ち続ける事がやっとだった。最初のうちは台詞を忘れて頭の中が真っ白になった事もあった。私の周りが瞬時に冷凍装置にかけられた様に、凍りついた瞬間だ。
また、舞台上でミスをし、この芝居が終わらなければいいのにと思った事もよくあった。こんなんじゃ、お金なんてもらえないと内心しょげながら、舞台装置を片付けていた。
今じゃ私も図太くなったもんで、自分のミスもあざとく他人のポカの様に見せるが如く、舞台上で我が道をいく。大したもんだと自分でも関心してしまう。
思えば今までどれだけの舞台を踏んだんだろう。ざっと計算しても2,000回は超えているなあ。これが多いのか少ないのかは不明だが、私に関して他の物事の経験回数と比較するとダントツで1位なのは確かだ。
劇団に入って5年目だったと思う。『この役はお前より上手く出来ない。』とある先輩にも言われた当たり役をさせて頂いた年だ。
別の先輩からもこんな話を聞かされた。
『(3年経つのに私の)演技が中々上手くならない。』と話す旦那様に、
『5年待ってくれ。』と話していた。それが現実となったとの事。
これだけ書いていると、日々私が頑張ってやってきたからに聞こえるかもしれないが、決してそうではない。
2年目、主役をやる事になった。こちらの劇団では2年目は主役をさせ、その役者に勉強させるのだ。そして、まわりはバッチリ、力量の有る役者で支える。そんな思いでスタートした稽古では、動きまわり、大道具にぶつかり、見るも無残に脚が傷だらけ、出血している。『加減してやれ』と先輩から言われたが、出来るわけもない。演出家は京都の奥ゆかしい方でそれについては何も言わなかったが、配役ミスったかなと思ったかもしれない。そしてその上、公演初日には長セリフを1ページ弱とばし、公演後のダメ出し(反省会)で、
『あのセリフ忘れたんですか?』と演出家に問われ、
『忘れていなかったんですけど、(感情的に)言えなかったんです。』
と悪気もなく言っていた。今じゃそんな事、脚本演出家先生の前では口が裂けても言えない。
そしてその年は、栃木県大田原市にある那須野が原ハーモニーホールが出来た年で、そこに人生初の“柿落とし”に主役として、立たせて頂いた。でもこの舞台、あまりに大きいので別の役者に変えるという選択肢もなくはない。
というのは、1年目、芝居の一言目のセリフが私ので、あまりにも下手すぎ、先輩にそのセリフがまわってしまったと言う悔しい経験もある。でも、忍耐強い方々のお陰で、稽古を繰り返し、変更なく私であった。
そして、毎年新しい芝居台本が出来ると、“鵜飼”を使っていいかと劇団代表に聞いてくださった脚本演出家もいらっしゃった。
いつだったか、その演出家と2人で夜、歌いながらスキップの練習をした記憶もある。明らかに武器用で、手のかかる役者だった。
それなのにどうして私を使うのかと聞いてみたら、
『普通の人はゼロからスタートして上達する。しかしお前はマイナスから始まるから上達の伸びが明らかに見えていいんだ。』と笑いながら稽古をつけてくれた。
最近では少し薄れてはきたが、劇団在籍後半は、世の中、何が起こっても、自分だけは生き残れる感じがしていた。それだけ沢山の失敗も良い事も経験させて頂き、逞くなったんだと思う。
こう振り返ってみると、やはり周りの力に支えられて今日、表現の仕事をしている自分が有る。そして、今まで皆さんの注いでくださった力を今は、途絶えさせてはいけない様な気がする。
準備中