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Logo Mark歯を磨く様に演じる芝居!いつまでたっても進行形

鵜飼雅子

舞台役者、朗読家、アトリエほんまる 副支配人。
日本演劇教育のさきがけ的な存在である劇団らくりん座の正式団員として全国各地で公演を経験。
朗読や表現、コミュニケーショ...

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ほんと言って自分の演劇活動がこんなに長く続くとは実際思っていなかった。初めはなんとなくやり始めた芝居。
もともと運動、美術、音楽は得意だったが、国語はメタメタ駄目だった。
今でこそ読書好きになったのだけれども、昔は字のあるものは漫画でさえも読むのが嫌だった。
苦手、それも続いている理由の一つかもしれない。運動は学生時代は学校でトップクラスであり、やり始めたら大抵のことはできた。陸上のハードル競技では区の大会で優勝し、表彰された事もあった。運動は自分でも出来て当然と思っていた。その運動は今は続いていない。
しかし、芝居はその真逆でなかなか出来ない。まずは出来ていないことがわからない。そして自分の心、身体なのに、こんなにコントロールが利かないものなのか、つくづく思い知らされる事になる。
自分が芝居をやりだした頃は“先輩の芸を見て取れ”が当たり前の時代だったが、能力が備わっていない人には見て取れない。自分の芝居に関するダメ出しを言われてもなかなか改善策がわからない。稽古中、言われすぎて頭と身体が分離して動けなくなった事も数回ある。
勿論、公演が休みの時、私がらみの稽古をして頂いたのだが、稽古の時はかろうじて少し良くなるのだが、次の日の本番になると崩れてしまう。これはまあ、当然だ。芝居は毎日公演していても、全く同じにはならないのだから。
それ以前に初めたばかりの頃は充分な声が出ない。私がやっている舞台はマイク無しで全て生声で演じる。多い時だと観客は800名程。喉を痛める心配なんて誰もしてくれない。とにかく後ろまで届く様台詞を言えだ。今となっては脇を固める役も多いのだが、20代の時は主役も多くやらせていただき、当たり前だが台詞が多い。そしてストーリーを徐々に盛り上げていく為に、先輩役者の台詞より高く、強く台詞を出していかなければいけないが、これがなかなか難しい。その時は本当不思議に思った。
『なんで親位の年齢の先輩に、若い肉体を持つ自分が勝てないのかって。』
やはり、鍛えていないと、いくら若くても駄目なのだ。
しかし、少しずつではあるが、できないものがだんだん出来ていく。それがまた面白い。未だに満足いくものが出来るとはいえないが、なんか前進している感じがする。芝居に関して出来なかった事が多いだけに、人より出来る様になる事が多い(笑)。
いろんな事をやらせて頂いた。日舞、バレエ、三味線、法螺貝吹き、衣装小道具大道具の作成、舞台監督、旅公演。細かい事をあげたらきりがない。
ロシアのオムスクの劇場にも連れて行ってもらった。芝居の黒子と英語がなんとなく話せたので、通訳兼用で。
オムスクの劇場は日本の劇場を何十年か昔に巻き戻した様なレトロ感たっぷりの劇場で、あるところでは、舞台の上を箒で掃除をしていた。私の記憶では相撲をとる土俵の様だった。その舞台を使い、汚れたので、私が掃除をしていたら、おそらく掃除担当の女性に『掃除しないで。』と言われてしまった。彼女の仕事がなくなってしまうからだろう。
そしてその劇場、楽屋の暖房をつけると舞台の照明が消えると英語が話せるロシア人の男の子が教えてくれたが、誰かが暖房をつけたんだと思う。チェーホフの『3人姉妹』風な素敵な芝居公演中に舞台が真っ暗になった。でもそこの俳優は慣れたもので、これまた素敵な蝋燭をいくつも灯した燭台が舞台上手から、お話の中から当然出てくる小道具の様に登場した。もう25年位前の話。そして、そこの俳優の給料は当時数ヶ月遅配だった。
劇場の柿落とし(劇場が出来て最初の公演)も2度も経験した。何度も柿落とし公演を舞台の上で経験するのは確率的に低いもの。
こうして芝居人生を振り返ってみると、どんどん自分の前に面白そうな経験の出来る山が出現する。だから、興味本位で登っているだけの事かもしれない…。
さてさて、次のお山は…“宇都宮のシニア劇団スターライト 初公演”そして宇都宮市の芸術祭演劇部門の公演へと続く。

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鵜飼雅子

舞台役者、朗読家、アトリエほんまる 副支配人。
日本演劇教育のさきがけ的な存在である劇団らくりん座の正式団員として全国各地で公演を経験。
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