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Logo Mark歯を磨く様に演じる最近観た『桜の園』

鵜飼雅子

舞台役者、朗読家、アトリエほんまる 副支配人。
日本演劇教育のさきがけ的な存在である劇団らくりん座の正式団員として全国各地で公演を経験。
朗読や表現、コミュニケーショ...

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先日、東京渋谷にあるPARCO劇場に『桜の園』を観に行った。「久しぶりの東京!」そう浮かれていたのも束の間で、私は朝から都心の人の多さに面食らっていた。
さて、今回の『桜の園』はロシアを代表する劇作家アントン・チェーホフの作品で、芝居をやっている人ならおそらく知っているだろうと思われる、とても有名な古典中の古典作品。柄本明さんもやっていた一人芝居『煙草(たばこ)の害について』と同じ作者である。
ある方のSNSに今回の公演は“新しい『桜の園』だった”なんて単語を発見したのでどうしても観たくて公演が終わりそうな時期に急いで残り少ないチケットを取り、駆けつけた。
アントン・チェーホフの作品には、表面から見ると、とても他人事とは思えない暮らしの中の悲劇が存在する。おそらく彼の作品に漂う悲劇の心情は現代でも十分存在するんじゃないかと私は思っている。でも、それは悲劇かと思いきや、喜劇なんですよね。特に観ている方からすると。これも私達の生活ではよくある事。高校時代私の周りではそれを“薔薇を背負ってる”なんて言っていた。だって、悲劇のヒロインってマンガじゃ大体バックに薔薇が書かれていたじゃないですか。
今回の『桜の園』の演出はロンドンにあるシェイクスピア・グローブ座のアソシエイト・ディレクターであるショーン・ホームズが担当している。
演出する人によって芝居の印象は大きく変わると思うが、今回のがまさにそれで、私としては、芝居を作り演出していく中で、心の中の奥深くにつまっていたヘドロがスウッと流れ出る感じでとても気持ち良い作品に仕上がっていた。
『ここまで脚本の裏(人物の裏の感情)を具体的に表現してもいいんだ。』って。
大劇場でやる古典の個人的な印象は、ガッチリ迫力ある舞台装置が組まれ、全くもって異世界の事柄として、登場人物が見るものとは関係なく異世界の物語を綴る、そんな感じであった。現代の生活には落とし込めない高貴な威圧感が存在した。
しかし今回の『桜の園』は私達の生活に身近な、工事現場のフェンスで囲まれた舞台装置、子供が遊ぶお家用プール、水着を着た女性、上野公園にいても可笑しくない服装の男性なんかも登場し、最初のうちは、
『私、何の作品を観ているんだろうと一瞬思考が止まりそうになった。』
極め付けはスーツ姿で熊の大きな被り物を被って三輪車に乗った人物が、舞台上をぐるぐる回っていたシーンだ。
おそらくチェーホフの脚本のト書には全くもってこの事は書かれてはいないだろう。
これは主人公の南ロシアの地主であるラネーフスカヤ夫人の頭の中や心の中の問題であり、こう言った物事はなるだけ演者は観客にそう思わせる様演技をするの(にとどめるもの)だと思っていた。
しかし、演出のホームズは斬新にも町内会のお祭りやキャラクターショーに持ち出される様な熊の被り物をだし、それをメインキャストに被らせ三輪車に乗せている。
舞台上で、その熊の頭が必要でなくなった時も、テレビの様には当たり前だがカットは出来ず、被っていた役者が何気に左脇に抱えながら芝居が進む。目から鱗である。
現在、ある芝居を演出している私。それは全く異なった2作品を合体させて作っている。勿論その合体は必要であるからそうさせているのだが、客席にはその意図が届くかわからない。台詞で言わせたら頭ではその事実がわかるだろうが、どうも安っぽすぎで、軽々しく嫌なのだ。
こんな事を悩んでいた矢先観た斬新な古典作品『桜の園』。
この演出については解らないとか否定的な意見もあると思うが、私にとっては、
“堂々と自分の形で表現すべし!”
という印籠を頂いた様なものだった。

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