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Logo Mark連載記事

Logo Markなにか創るとうれしくて戊辰戦争から感じた日本人の気質

紫水勇太郎・清水 豊

株式会社4DT 代表取締役
株式会社ワークス 代表取締役
Spinart運営者
YouTube「うさぎのうみちゃんねる」のおじぃ
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「要は権威に弱いってことだなぁ。」
「権威がそう言ってるなら自分がラクな方を選ぶってことだなぁ。」
 …なんのこっちゃですねw
 いや、ふと気になって戊辰戦争の経過を再確認してたんですよ。で、その過程でそんなことを思ったというお話。

「戊辰戦争ってなんだ?」って?
 ご存知ない方はWikiでも読んでくださいなと思うけれど、けっこうな文章量があるので(概略だけとは言えあれだけの情報を掲載してくれているWikiはやっぱりすごいなぁ…)簡単に書くと、江戸時代の最末期、徳川幕府とそれを支持する各藩 vs 薩摩藩(だいたい鹿児島)、長州藩(だいたい山口)、土佐藩(だいたい高知)、肥前藩(だいたい佐賀)あたりを中心とする朝廷を担いで幕府を倒したかった各藩、で戦った日本の内戦。
 まぁ歴史の授業では、この結果朝廷側が勝って幕府が負けたから明治維新が成ったくらいのことしか教えないと思うけど、まぁざっとそんな理解でもいいかなと。

 で、なんで今戊辰戦争の経過なんて確認していたかというと、この内戦がかなり簡単に朝廷側勝利で終わったように見えることになんとなく違和感を感じたという次第。
 もちろん勃発から終戦まで2年以上に渡る期間がかかり、戦域も京阪地域から最後は北海道の函館(当時は箱館)まで広範囲に渡っているのだから一概に簡単に勝ったとは言えないかもしれないけれども、それにしても各地の戦いで幕府側が勝利した形跡が少なすぎるというか…まともに戦ったのは上野と東北と最後の箱館戦争くらいじゃないの?…と思うくらい一方的に押しまくられているように見えて、なんでそんなことになったかなぁと考えた結果、冒頭に書いたような「要は権威に…」とか「権威がそう言ってるなら…」というようなことを思った次第。

 例えば序盤の鳥羽・伏見の戦い。
 戦闘が始まってわずか4日の段階で幕府軍のてっぺんだった15代将軍・徳川慶喜が戦線を放り投げて大阪から船で江戸に逃げちゃった。いや、勝ち目がなかったというならまぁ逃げるのも仕方がないけれど、この逃げた時点では優勢とは言えないながらもまだ数としては幕府軍の方が多い状態で、敗色濃厚というわけでもなかったらしい。
 じゃあなんで逃げた?

 そしてその後の朝廷側の西日本制圧や東方進出速度もとんでもない。
 あっという間に西日本の各藩を朝廷側につけ、そしてあっという間に東海道や東山道を東へ進み、そして小田原あたりに到達する。
 まぁ西日本の各藩はね、そもそも外様だったりもするだろうし、朝廷側の中心だった各藩と地理的にも近いこともあって、迂闊に、
「幕府に味方します!」
なんて言うと、あっという間に囲まれて袋叩きにされちゃうかもしれないからある程度仕方なく朝廷側についた藩もあったかもなと思えるけれど、理解できないのは関ヶ原から東側に位置していた徳川の一族や重臣が治める各藩。具体的には彦根藩(だいたい滋賀)、桑名藩(だいたい三重)、紀伊藩(だいたい和歌山)、尾張藩(だいたい愛知)とか。
 彦根藩なんて家康の時代に徳川四天王と言われた井伊直政から始まって、この戊辰戦争のちょっと前には大老・井伊直弼を出してしかも暗殺されてもいる。いわば代々重臣中の重臣と言える藩だ。
 桑名藩も同じく徳川四天王・本多忠勝から始まって、この戊辰戦争の頃には尾張藩の徳川慶勝や会津藩(だいたい福島の西側)の松平容保の実弟・松平定敬が藩主を務め(つまり徳川の一族ね)、さらにはこの少し前には、将軍になる前の徳川慶喜(その頃は一橋慶喜…一橋家も徳川の一族で御三卿の一つ)や会津と一緒に京都で一時期政局の中心にもいた藩よ(一会桑政権とか言うらしい)。
 そして紀伊藩は徳川御三家で8代将軍・吉宗(暴れん坊将軍ね)を輩出した家だし、尾張藩も徳川御三家のそれも筆頭で、この時の藩主・徳川義宜の親父(先代藩主)・慶勝は、やはりこの戊辰戦争の前にあった長州征伐の時には幕府軍の総督も務めているような人だったりする。
 だいたいそもそもこの各藩ともに、西からの敵の侵攻を止めるために家康によって配置された藩なんじゃないんかいと…思うんだけれど、これが全部面白いように朝廷側についたりするんだなぁ。だから朝廷側の進軍もラクちんスルー。
 なんでそうなる?

 で、サクサクっと小田原まで進んで、その後江戸城をサクっと開城&将軍・慶喜の水戸での自主的謹慎がありつつも上野山戦争とか、その他いくつかの局地戦的なものがあって、しかしそれらも全部朝廷側が勝って…という感じなんだけど、ここまでの進行が異様に早い。
 だって徳川260年よ。それが倒れるまでがあまりにあっさりなんじゃないのと思っちゃう。
 しかしこれで戊辰戦争が終わったわけではなくて、親分の将軍・慶喜はとっとと降伏しちゃったけれど会津藩と庄内藩(だいたい山形)はすぐには降伏しなかった。だって会津藩は京都守護職を担った松平容保だし、名前の通り徳川の一族…というか前出の尾張藩先代藩主・徳川慶勝の実弟だし、それに会津藩家訓の徳川家への絶対随順が刷り込まれている。そして庄内藩はやはり家康時代の徳川四天王(それも筆頭)・酒井忠次を祖先に持つ酒井忠篤が藩主で、江戸市中取締役をやってたりしてるしね…てか両藩ともそれぞれ京都や江戸で、薩摩藩と戦って恨まれたりしてるのね(会津はむしろ長州に強く恨まれてたと思うけど)…だから朝廷側もこの両藩にはキツく対処するし、両藩側も、それを唯唯諾諾と受け入れるわけにはいかないという状況だったんだね。で、それに呼応した仙台藩(だいたい宮城)をはじめとする東北・北陸の31藩が「奥羽越列藩同盟」というのを組んで対抗するわけだ…とまぁここでようやく本格的な戦争らしくなってきた。
 で、実際東北・北陸の各地で戦うわけだけれどこれがどうも勝てない。小藩も含んでいるとは言え31もの藩がまとまって勝てないってどういうこと?…である。
 原因は寝返った藩がバンバン出てきたからと思える。松前藩(北海道)、弘前藩(青森)、矢島藩(秋田)、久保田藩(秋田)、本荘藩(秋田)、新庄藩(山形)、三春藩(福島)、守山藩(福島)、下手渡藩(福島)、新発田藩(新潟)…こんなにw…しかも位置的にバラバラなので、東北・北陸エリア内が虫食いみたいな状態になりそうだな。新潟なんて港として重要拠点だったりしたんだろうし…こりゃ勝てねぇわ。
 でもなぁ、なんでこの各藩は寝返った? 単純に損得? 中には徳川の親族や重臣の子孫もゴロゴロいるけど?

 単純に幕府側が武力として弱かったからだろって?…それがそうでもないらしいんだよね。
 なにせ旗本や御家人がいっぱいいて、(上記のように裏切り藩がいっぱい出たとは言え)徳川家の親戚である親藩、昔から徳川に仕えている譜代藩もたくさんあって、とにかく数は幕府側の方が多かったはずなんだ。
 じゃあ装備かと言うと、確かに薩摩藩はイギリスと組んで最新兵器を輸入していて、それを長州藩にも売っていたとか、肥前藩は独自にガトリング砲まで揃えていたと言うから朝廷側の装備はすごかったらしいけど、幕府側だってフランスと組んで最新式の兵器を揃えていたと言うから、おそらく装備面ではほぼ五分と五分(映画「ラスト・サムライ」みたいな装備格差はなかったんだね)。となれば数が多い分幕府の方が有利だったはずとも思える。
 まぁもちろんね、そんな状況下にありながら第二次長州征伐で負けちゃったりしてるから、数は多くて装備も良かったとしても兵がぼんくらだったのかもしれないし指揮官がアホだった可能性もある。
 いや、朝廷側の指揮官が優秀だったのか? 確かに有名人は多い。西郷隆盛、大久保利通、桂小五郎(木戸孝允)と言った名前はおそらく歴史に興味がない方でも知ってるだろう。しかし彼らはおそらくあまり前線の指揮をしていないと見える。では前線で指揮をした例えば乾退助(後の板垣退助)等が優秀だったのか?…まぁそうなのかもしれないけど、最終的に北関東から東北に広がった広大な戦線各所すべてのリーダーが優秀だったとは考えにくく、実際優秀な人も多くいただろうけれどもそれが決定的な理由とも言えなそうだと思えたりもする。
 つまり、武力差がこうした現象を起こした原因じゃないかも…ということかなと。

 じゃあなに?
 シンプルに思いつくのは徳川慶喜が鳥羽・伏見ではとっとと逃げて、その後謹慎恭順したこと。これによって幕府側はトップを失った状態になったわけで、その結果、トップが戦わないって言ってるんだから、それに連なる幕府側各藩も戦わないっていう選択をした…ということかなと。これが、
「権威がそう言ってるなら自分がラクな方を選ぶってことだなぁ。」
と思ったことの一つでもある。だってその方がラクだもんね。
 まぁ背景には徳川慶喜への反感もあったのかもとは思うけど(紀伊藩は前将軍・徳川家茂を出す際の継嗣問題で慶喜と争ってるしね)、それでもおそらく主命として下った戦いなら嫌でもやらないわけにはいかなかっただろうけど、でもそのトップがやらないと言っている。こりゃラッキーってなことだ。
 まぁ…一部桑名藩などでは、領主・松平定敬(この時は慶喜と一緒に江戸にいたらしい)が幕府側として戦うと言ったのに国元の家老以下は勝手に開城しちゃうという珍現象も見られ、これも、なにもトップが戦わないと言っているのに、自分たちがババを引くこともないだろう的な思いを感じてしまう…まぁ当時武士の考え方の中心にあったと思われる朱子学に基づいた「忠」なんてものも、結局目の前の利得の前には弱いものなのかもなぁと思えてしまうけど。

 では、
「要は権威に弱いってことだなぁ。」
とはどのようなことか。これも鳥羽・伏見の戦いで慶喜が逃げた原因から考えてみる。キーワードはおそらく「錦の御旗」とか「朝敵」あたりだろうと思うんだな。
 つまり朝廷側は最初から「朝廷側」だったわけではなくて、少なくとも鳥羽・伏見の戦いが始まる時点では単に薩摩藩とか長州藩という、幕府から見れば家臣の反乱でしかなかったと思うんだな。家臣がいろいろと策動しては、朝廷工作してみたり、公武合体やら尊王攘夷やらその他諸々うるさい上に、勝手に外国と戦争して負けて(薩英戦争とか下関戦争ね)その賠償を幕府に負わせようとしたり、江戸で治安を乱してみたり、まぁいろいろやるからここで潰しておこうということだったはずだ。
 それが突然薩長側に正式な朝命が降り、錦の御旗を掲げて、さらに皇族も派遣されて朝廷軍になった。そして幕府側はこの時点から「朝敵」になったわけで、慶喜的にこのショックはけっこう大きかったのかもなと思う。
 だってあれよ。幕府の将軍っていうのは「征夷大将軍」っていう朝廷の官職なのであって、一応建前は天皇のために働いていることになっているわけで…とはいえ徳川幕府は家康によって禁中並公家諸法度なんていうものを作って、おそらく史上初めて成文法で天皇、皇室、公家の行動を制限したわけで、決して「天皇のために」働く機関ではなかったとは思うけれども…しかしそれでもこの幕末に至って、ちゃんと朝廷に報告したり相談したり勅許を願い出たり、だいぶ気は使ってたよなと思うんだよね。
 だって、14代・家茂の時には3代・家光振りに上洛したり(つまりその間の将軍は一度も上洛してないんだねぇ)、15代・慶喜なんてほぼほぼ京都や大阪にいたし…まぁ情勢がそうなっていたんだろうけど、だいぶ朝廷寄りに動いていたと思うもの。だいたい慶喜なんて尊皇派である水戸藩(だいたい茨城)・徳川斉昭の息子だしね。その敬ってる相手から敵扱いされるのはキツかっただろうなと想像する。
 で、心が折れたと。で、戦場を放り投げて逃げたと。で、勝手に謹慎したと。で、自分は趣味三昧しながら76歳まで生きたと。
 つまり、慶喜にとって天皇という権威がめちゃくちゃ重かったということなのではと思うんですな。

 これは、徳川親藩、譜代の各藩が寝返ったことにも通じると思うんです。
 前出の、トップが戦わないことでラッキーと思ったという心理ももちろんあるでしょうけれど、しかもそのトップは朝敵認定されている。それ故身を引いて謹慎恭順の姿勢を見せている。であれば自分たちもそれに倣うべきだろうと…本音としては幕府という泥舟からの脱出を考えていたとしてもね、自分の行為に大義名分が立つわけですなぁ。
 正直ここら辺はどうもモヤモヤするところで、例えそういう状況になったとしても、自分が泥を被ってでも相手をビビらせて交渉を優位に運ぶなんていう思考は…まぁ誰も思わなかったんでしょうなぁ…というかそれほどまでして差し上げる価値を、慶喜または徳川宗家に対して感じなかったか…。
 だって「アウトレイジ」みたいな映画の中だと、自分の親分がヤバかったら危険を顧みず自分が行ってその状況をなんとかしようとする熱い子分さんが出てきたりするじゃないですか。戦国時代にもそれっぽい話ってあったように思うんです。でも幕末のこの時はなかった。純粋に慶喜のために戦った人…いたのかなぁ…。
 最後まで戦った榎本武揚、土方歳三ら箱館戦争のみなさんも、奥羽越列藩同盟のみなさんも、おそらくだけど慶喜のために戦ったんじゃないんじゃないかなぁ…なんて思えてしまうんですよねぇ。

 そう言えば朝廷はいつの間にそんなに力を盛り返したんでしょうねぇ。
 家康の禁中並公家諸法度によって縛り込まれて、原則として内政、外交、あらゆる政治的な行為への口出しを禁じられて、関白や摂政といった重要官職の任官や罷免も、元号を変えることも、下手をすれば天皇の即位や譲位なんかも自由にできないような感じになっていたはずで、つまり江戸時代の中盤まではおそらくなんの影響力もなかったはずと思うんですね。
 調べてみると、幕末の幕開けとも言えるペリー来航の時の日米和親条約締結の際、幕府は朝廷に勅許を求めていないようなのに、その後に来たハリスの時の日米通商条約の時には勅許を求めている(しかも拒否されてるし)。てぇことはこの間になにかがあったということか?…と思うけど、幕府からの要請を朝廷側が断ることができているということから見ても、この時には既に、朝廷の力がだいぶ盛り返してきていたのだろうと思える。
 じゃあいつなんで力を回復できたんだ?…と遡ってみると、この時の天皇(孝明天皇)の先代・光格天皇のところで「ゴローニン事件の際には交渉の経過を報告させる」という記述がある。「ゴローニン事件」とは、この頃千島列島方面に進出してきていたロシアの軍艦を松前奉行(北海道の行政機関)が捕縛して抑留した事件なんだけれど、その事件について幕府に「報告させ」ていたとすれば、この時には既に朝廷が幕府よりも上位として行動・発言できていたことになる。
 さらに調べるとそのさらに前に「尊号一件」という事件がある。これは光格天皇がご自身の実父・閑院宮典仁親王に対し、天皇に即位したことがないのに太上天皇(上皇)の尊号を贈ろうとした事件で、この時の老中・松平定信(寛政の改革で有名な人ね)はこれをつっぱねたが、どうやら定信以降の幕府官僚はこうした朝廷からの要請についてより穏便に対処するようになったようで、この辺りの運用基準がだいぶ曖昧になったようだ。
 で、他にもなにかないかと調べてみるとさらにその少し前、天明の大飢饉の時に光格天皇が幕府に、民衆救済を申し入れて幕府がそれを受け入れ米1,500俵を京都市民へ放出したということがあったそうな。で、これがどうやら禁中並公家諸法度に違反しているということになるようで、本来なら罰せられてもおかしくないところなんだけれど(天皇が罰せられるってのも不思議な話だけど…)、この時は幕府側が不問としたということらしい。
 なるほど、おそらく原因はこの光格天皇にありそうだ。この天皇の在位中に3つもそういったことがあり、幕府側の対応も都度ブレていると感じる。結果、次代の孝明天皇の頃には既に、朝廷が幕府に対して口出しすることが普通になっていたということと思える。
 まぁこれも、幕府の経済基盤が弱くなったところに大火やら飢饉やらがあって、さらに外国からの圧力もある中で国内からも様々な突上げが起こっているという、いわばドタバタ&ドサクサの中だからできたことなのかもしれない。そしてそれに対応する幕府側の官僚(主には老中だろうけど)も、いわゆる絶対権限を持った統治者ではないから、なんだかんだと右往左往してひよったりしていたのが現実とも思えるな。で、その隙に朝廷側が巻き返してきたと。で、それを誰も止められない…いや、それを利用して自分たちの権力拡大を狙った連中もいたってことだなぁ。天皇側近とか水戸藩とか長州藩とか薩摩藩とか…あたりかな。

 ということで例によって話が逸れたが(筆者の特技である)、つまり戊辰戦争ほどの大きな内戦が、なぜああもたやすく朝廷側の勝利で終わったのかを考えてみると、
「要は権威に弱いってことだなぁ。」
「権威がそう言ってるなら自分がラクな方を選ぶってことだなぁ。」
というような2つのメンタリティーの存在を強く感じましたというお話でした。

 でね、これって今も同じかもなぁと。
 だって会社とかでさ、上司から「やれ」と言われると、例えそれが間違いだと思っていてもやるでしょ? そのくせ「やらなくていい」と言われると、どんなにやった方がいいことでもやめちゃう。自分の意思を持って議論に持ち込もうとするなんていう会社員…まぁ官僚とか役人でもいいけど、多くはないと思うんだよなぁ。そのくせ先輩とか上司とかにはやたらと気を回してたりするし、またそこに気を回せる人が出世したりする…まぁ、突っかかってくる奴よりもかわいいと思っちゃうんだろうけど、まぁそんなもんよねぇと。

 でもね、この戊辰戦争だけで言えば、日本人がこういう特性を持っていたからこそ良かったと言える面もあったとは思ったりして。
 だってこの状態って下手をすれば各藩が各地で割拠する戦国状態に逆戻りという可能性もあったと思うのよ。しかも家康以前の戦国とは訳が違うよね。世界情勢が違う。迂闊に内戦を長引かせれば外国勢力によって日本が侵略される可能性も高まるという状態だったなぁと思うんですよ。
 これは同時代の中国がモデルになるかなと。
 中国では欧米に対して清が対抗できずにアヘン戦争やらアロー戦争で負けて、諸外国と不平等な条約を結ぶ羽目になって、内乱も起きて、さらに明治維新後の日本との戦争(日清戦争)にも負けて、国土のあちこちを治外法権的な租借地として取られてさらに弱体化して、その後、清を倒して中華民国が建ったものの、地方には軍閥が割拠していて統一国家という感じにはなっていなかった。つまり戦国状態。そこに日本が無理な要求を突きつけてきたり実際に軍事侵略してくる中でさえまだ内戦状態への対処を優先しようとしてたくらいで、国共合作やアメリカの支援がなければ日本に負けていたかもしれないし、日本に勝ってからもまだぐちゃぐちゃして、1949年に中華民国の中核だった国民党が共産党に負けて台湾に逃れ、今の中華人民共和国が成立するまでずっとぐっちゃぐちゃの状態が長く続いた…てか、その後もけっこうぐちゃぐちゃしてたもんなぁ…。アヘン戦争が1840年だからなんと100年以上もぐちゃぐちゃだったってことかぁ…。中国が強くなったのなんてここ20年くらいの話かもしれないもんなぁ…。
 日本はそうならずにすんだ。その要因の一つには、こうした気質があったことで長引かずに早く収めることができた…ということなんじゃないか…なぁ。まぁよく時代劇とかでは、当時両陣営の中心人物たちが外国の脅威をちゃんと感じていて、だからちゃんと理性的に矛を収めたんだ的なエピソードが語られることがあるけど、これはないと思うんだよね。だってそう思うんだったら慶喜が大政奉還した時点で終わりにしても良かったはずだもの。つまりそうならなかったのは薩長側のここで勝ち切りたいという利己的な考えもあっただろうと思うんだよねぇ。あ…そう考えると、こうした特性が強く働くのって、自分が劣勢な時だけってことなのかも? そういえば優勢な時は権威なんて無視してゴリ押ししちゃうっていう例もけっこうあったような気がするなぁ…。

※ちなみに写真は数年前サントリーニ島で撮影した初日の出…ウソ…高知県にあるヴィラ・サントリーニというホテルから撮影した初日の出です。
そういえば高知はあちこちに幕末期の有名人の銅像がありましたなぁ。あの桂浜や高知城を実際に見ることができたのもうれしかったし、坂本龍馬記念館も楽しかったですなぁ。
ちなみに翌年は長崎で亀山社中記念館やグラバー園なども見て、幕末について考えさせられたものでした。
※使用カメラ&レンズ:Canon EOS 6D + EF24-70mm F2.8L II USM

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