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Logo Markなにか創るとうれしくて映画「ラストサムライ」で泣く理由〜「シン・仮面ライダー」主役の池松壮亮の出発点

紫水勇太郎・清水 豊

株式会社4DT 代表取締役
株式会社ワークス 代表取締役
Spinart運営者
YouTube「うさぎのうみちゃんねる」のおじぃ
YouT...

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 庵野秀明監督作品「シン・仮面ライダー」。これは間違いなく、日本のヒーローものにおける記念碑的な作品になる。そしてその主人公・本郷猛を演じた池松壮亮もまた、今後さらにとてつもない表現をする役者になっていくのだろうと、改めて思ったりする。
 その池松壮亮。「愛の渦」「MOZU」「永い言い訳」「万引き家族」「宮本から君へ」など、これまでかなり複雑な難しそうな役を見事に演じ、きっとこのキャラクターはご本人にものすごく重なるものがあるのだろうなんて思われるくらいのリアリティをこれでもかと見せつけてくれた、自分的に若手の中では超個性派の超注目俳優さんと思っていた人なんだけれども、その彼のキャリアのスタートが、あの「ラストサムライ」の少年・飛源(ひげん)だったというのは実は全然結びついてなくてまったくもって不覚としか言いようがないと今さら思った次第。
 だってあの飛源という少年が見せるあらゆる感情。表層的ではなく深層まで感じされるあの演技…特に表情。いやぁだってめちゃくちゃ印象に残ってたもの。
 ということで「ラストサムライ」を見直してみた。
 これがさぁ、不覚にもまた泣いてしまったのよ。実は「ラストサムライ」は既におそらく10回くらいは観てる。これはオーバーでも誇張でもなく控えめに言ってこのくらい。いやもっとかもしれない。そしてその度にカミさん(YouTube動画「うさぎのうみちゃんねる」におけるおばぁ)に隠れて嗚咽してるという…まぁただの涙もろいおじさんみたいになってるけど、今回もまた泣いてしまって、ではなんでこの映画についてはこんなに毎回泣けるのだろうと考えてみた。
 あ、ちなみにそんなにどの映画でも泣くというわけではないので念のため。例えば「さぁ泣け!」的お涙頂戴系の映画は基本的に小馬鹿にしてしまう悪い癖があるし、設定やストーリーに矛盾を感じるとすぐに鼻を鳴らしてしまうし、セリフがダサいと思えばバカにするし、役者がクソだと思えば容赦なく批判してしまう…まぁ厄介な視聴者なんだろうとは思う…自分でも。まぁ基本的に自分の力量を棚に上げて他人を批判するのは大好きなので…てかあなたもそうでしょ?w

 さてそんなくだらない話はさておいて、映画「ラストサムライ」のどこにそんなに感動するんだろう?…トム・クルーズがかっこいい?…確かに彼の数多くの作品の中では最上級の演技を観ることができると思っている。「宇宙戦争」とかの彼では感じることができない凄みがあるものね。渡辺謙がすごい?…確かに彼の存在感はとんでもなくすごいし、彼だからこの映画が成り立っているというのはおそらく間違いないだろう。「硫黄島からの手紙」や「沈まぬ太陽」も良かったけどね。少なくとも「GODZILLA」や「インセプション」で観られる彼とは段違いだと思う。描かれている物語がいい?…いやいや、歴史考証的にはツッコミどころ満載と思うし物語も大枠は比較的定番とも思える…じゃあなぜそんなに毎回嗚咽してるんだよって?…前振りはもういいから早く答えを書け…すみません。

 まず「己の信念に殉じる」というテーマが刺さる。
 ここに描かれている「サムライ」とは既に時代遅れのもの。軍事力としては銃器を中心とする近代兵器を装備した組織的な歩兵の方が明らかに有利で、それは実際の歴史でも幕末から明治維新付近での多くの戦いが証明している。しかし彼らはそれでもその様式を捨てない。実利から言えばある意味バカでしかない。だって「戦争に勝つ」ことを目的としているのであれば、戦い方に拘泥していたら勝てる可能性がどんどん下がるのだからある意味本当にアホでしかない。
 ではなぜ彼らはそうした手法を捨てないのか…これはもう様式美であるとしか言いようがない。一見非効率であっても、自分たちが素晴らしいと思える方法にこだわる方がはるかに自分の満足度が高いという選択。その選択をすることで自分たちは滅びるかもしれないという予感を、あえて無視してでも自分たちの手法にこだわるというその潔さ。これにグッときてしまうのだ。
 これはね、ロックやパンクに通じると思うんですよ。だってさ、叫ぶ歌、うるさいギター、ズンズン響くベース、ドカドカ叩くドラム…なんてオシャレじゃないとか言われがちでしょ? でもそれしかできないんだもん。でもそれ「が」好きなんだもん。だから誰がなんと言おうとそれをやる。それが今ウケようがウケまいが関係ない。自分はそれが一番かっこいいと思ってるし、自分はそれをやっている時が一番幸せだと思えるから、誰がなんと言おうとそれをやる…そんな感じかなと。
 少なくとも、市場がどうだとか、受け手がどうだとか、社会性がどうだとか、マジで関係ない。言ってしまえば「うるせえクソ喰らって死ね!」とでも言えそうなその姿勢。これが本当のロックやパンクってものじゃないのなんて、思ってしまったりするわけです。
 いやもちろんね、その良さを完璧に踏まえつつ、しかしもっと効果的な訴求方法等を提案してくれるような方とコラボできたらもっと強くなるとは思うけどね。例えばYouTube動画「Crazy NOVAのNO Vanity!」でインタヴューさせていただいた月岡彩さんのように、いわゆるこういうロックな存在(月岡さんの場合は伊予水引の伝統工芸士さんたちがこの「ロックな存在」にあたるのではと思うんだけど)のストロング・ポイントを瞬時に理解してそれを改変するのではなく増強させる素晴らしいアイディアを提案できる人(月岡さんのケースではこのポジションを月岡さんがとてつもなく見事に果たしていらっしゃったと思うわけです)に出逢えたら、こういう種類の人たちはより一層輝くんだろうななんて思ってみたり。
Spinart YouTubeCrazy NOVA's 【NO Vanity!】#12 - 月岡 彩さんインタヴュー企画 第1回
 まぁとにかく、客観的に見ればそれがもう既にダメかもしれないということは分かってるけど自分の美学としてそれにあえてこだわって見せる姿勢。そしてそれを研鑽し続けている姿。それが心に刺さる。

 そしてそれともつがなるんだけど「功利主義へのアンチテーゼ」も感じる。
 効率がいいことがいいのか? 儲かればいいのか? 成功ってそういうことか?…とにかく世の中、ちょっとすごい肩書をひけらかしている人になびきすぎと思えることが多いわけで…中国の春秋戦国時代の物語を紐解いてごらんなさいな。世の中にはまったく名も知られていないけどとてつもない賢者ってのがたくさん出てくるでしょ? 有名な三国志だって、そもそも諸葛亮がそんな人だし、それ以外にも龐統とかだって、司馬徽に逢うまでは世に知られていない人だったわけで、要はなにが言いたいかと言えば、権力や経済、地位とか名誉に寄り添ってる人じゃなくても、世の中には賢者がたくさんいるんだよねということだったりする。
 だからね、自分に誰かを紹介される時に、その人の事績や思考について話される場合は多くの場合で「それはすごいね」とか思うんだけど、よくあるパターンのように「どこどこ有名大学卒で」「有名企業の役職の人で」「〇〇団体の偉い人で」とか言われると、まぁ大抵は「ああそうですか、で?」という感情しか浮かばないというへそ曲り。で、そこで「それはすごいですね!」とか言ってお近づきになろうとしたり一緒に写真を撮ってFacebookに上げちゃったりする輩については「うわぁ下衆くせぇ」という感覚しか浮かばない。
 この映画では(アメリカ資本でトム・クルーズなんていうとんでもなく功利的なプロダクトで作られてるくせに)、そういったものよりも心の方が大切というメッセージを強く感じる点に泣けちゃったりするんだなぁ。え?…どこにそんなものを感じるんだって? 主人公ネイサンは最初週500ドルという当時としては破格のお給料でこの取り組みに参画するんだけど、まぁ彼の心の傷もあいまって、それがそういった報酬とは関係なく、自分が正しいと思った方に与して貢献しようとする心に変化していく流れとかね。(この作品の中での)天皇陛下もそうだよね。最初は自分を支える大村におもねっているけれど、勝元が亡くなった後それが変化していく。勝元の生前の言葉が効いてくるんだよね。功利的にはかなり損な選択だと思うけど、しかし自分はそれが正しいと思えるからそうするようになるという場面が、この他にもさまざまな登場人物に繰り返し描かれていると思えて、それが素晴らしいと思えちゃうんだよね。
 まぁこれはこの映画以前に、松本零士「キャプテン・ハーロック」が映画版「銀河鉄道999」の中で言った、
「男なら、危険をかえりみず、死ぬと分かっていても行動しなくてはならない時がある。
 負けると分かっていても戦わなくてはならない時がある。」
というセリフにも通じるものがあるように感じて、そう考えると自分の中にはだいぶ幼い頃からそういった考えが根付いてるんだなぁなんてことを思ったりもする。
 で、その結果最終的には鍵となる指導者(この映画では天皇陛下)の考えも改まる点がいい。
 だって中盤、勝元の言葉を受けた時の天皇陛下の反応は脆弱で、その後の廃刀令関連のいざこざでも曖昧な態度を取ってしまっていた陛下が、勝元の死後、毅然と大村をやりこめる。
 これねぇ、現代日本の民主主義においてもっとも欠けてる要素だと思うのよ。悪いと思われる奴が成敗されない。大抵は曖昧にフェイドアウトして、おそらくは権力に忖度したメディアが扱わなくなるとすぐにみんな忘れちゃって、で、次の選挙もまたそいつに投票して当選させちゃう。それでいいのか?…と毎回思うもの。そりゃ確かに腐れバカっぽい連中ばかりの野党には投票できないという気持ちも重々分かるよ。実際地方なんかでは政権党系の有力者から仕事をもらってたりして、ちょっと他の候補者には投票できないっていう人もいるだろうとは思う。でもさ、自分たちが収めた税金を不当な方法で使用してたり、誰か近しい人間を優遇してたり、官公庁の言いなりになってたり、外国の言いなりになってたり、そのくせ増税にばかり熱心で…なんていう疑いを感じる連中にそのまま安定多数での政権運営をさせていいのかって…なんで思わないのかなぁっていつも謎。
 いや今はいいよ。でもあんたらの子供の世代ではもっと厳しくなるんじゃないかなぁ…あくまで多分だけど。だって民衆から金を巻き上げて自分たちが美味しい思いをするっていうのが見え見え…じゃない?…違うの?…政権党に投票してるみなさんにはそう見えてないのかなぁ…それよりも棄権する人たちのマインドの方が信じられないところは大きいけどね。
 おっとまた話がそれた。話をもどすと、つまり、明らかに勝ち目薄い方がさまざまな工夫を凝らした結果、負けはしたけど善戦し、負けはしたけどトップの心を変えることには成功したという…完勝ではないけどめでたしで終わっているこの感じがいいんだよねぇ…え? それはないだろって? いやホントに現実社会ではマジでこういうことがないから腹が立つのよ。金持ちが勝つ。親が有力者だったりする方が圧倒的に有利…そういうのなんとかなんないかなぁといつも思ってます。

 そしてそして「異文化に尊敬の念」ですな。
 この映画にあるのは、近代アメリカの価値観を持つ主人公と伝統的な異国の文化の出逢いなんだと思うんだけど、これが、アメリカ人である主人公側も、伝統的侍文化の日本人側も、それぞれに興味を持って、その上で尊敬もしていて、結果認め合いはじめる。この流れがいい。
 今ある…というか歴史上これまで数限りなく起こってきた世界の紛争や個々人の間の争いの多くは、相手が持っている自分との違いを認めることができず、それを否定して、できれば自分の価値観で相手をコントロールしたいという欲求の上に起こっているように思える。
 しかしそれが、相手の考えや文化、背景にあるものなど様々な違いを最初から容認しようとする姿勢から動き出せば、おそらく少なくとも戦争やケンカにはなりにくいと思えるんだよね。いや、こんなことを書いてるクセに自分もだいぶその辺の心は狭い側の人間なので、ついついできれば強引にでも相手をやりこめて自分の思いを通したくなるという欲求は強い方だとは思うんだけれども、しかしそれを客観視している自分もいて、それはダメでしょとか、もっと広く考えて受け入れたらもっとみんなが幸せになるでしょとか、まぁもやもやと突っ込んでくるわけですよ。で、その理想系の一つがこの映画には描かれていると思うという次第。
 だって主人公・ネイサンから見ればよく分からない未開の民族ですよ。現に彼の上司であるバグリー大佐なんてあからさまになめてる。大村は勝元をなめてる。勝元は大村を軽蔑してる。勝元配下の武将たちから見ればネイサンは敵。しかも大切な武将である広太郎を殺された仇。小雪演じるヒロインのたかや池松壮亮演じる飛源から見れば夫や父を殺された仇です。
 しかし認め合うんですよ。相手の考え、出自、文化、風習…いろいろなものにちゃんと興味を持ってその本質を考えていくんです。そこに人間同士の関係性に本来あるべき姿を感じるんです。そんな風にちゃんと興味を持ってその本質を考えていければ、きっと完全ではなくても認め合うことはできようになると思える。少なくとも、自分と違うことを理由に相手を蔑むようなことはなくなると思えるんですね。そのヒントが、この映画にはふんだんに盛り込まれていると思えるんです。

 その上で結末にあるのは「許し」だという点も涙をそそる。
 特にたかや飛源にとっては夫や父を殺された敵。しかしその相手と暮らしている間に、そのキャラから苦悩までさまざまなことを知っていきながら最終的には好意すら抱いていく。この過程の描き方がなかなか丁寧と思うしじわっとくる。
 だってハリウッド映画によくありがちなあからさまなラブシーンとかないんだよ。たかはネイサンを認めて、好意を自覚して、その発露として亡き夫の鎧を着てくれと言いその着付けを手伝う…というだけ。その間にちょっとだけキスシーンはあるけど、その奥ゆかしさったら本当に素晴らしい。あのね、普通に考えて、そういう状態にある男女(それも異国人同士の)が、いきなりすごいベロチューしたりエッチしたりとか、全然リアリティないでしょ? でもこの映画ではそんなことはしない。ちょっと引きずられるように唇を合わせるけどすぐに我に返って離れて、その後また冷静に儀式のような着付けを進行していくという…美しすぎるし、でもしっかりと両者の感情は伝わるなぁと思うんだよねぇ…こんなのきれいごとかなぁ…。
 その他の武将たちも、ネイサンが剣術を上達していく過程でどんどん尊敬心を増していく。そんな過程も見ていていいなぁと思えるなぁと。
 そして最たるものは、初めて和服を着たネイサンを見た飛源が、ネイサンに対して武士の礼をするシーン。その後食事の際も、今後はネイサンが飛源に対してリスペクトを表す。たかが言う、
「夫は名誉の戦死をした(言い方は全然違ったと思うけど)。」
という言葉には、そう言うことで自分を納得させようとしているような建前を含んでいるように思えたけど、上記のような各シーンには本当の意味での「許し」が描かれているような気がして、その「許し」合える関係性を考えてはいちいちグッときちゃってるんだよなぁ…。

 これらの素晴らしい要素が、とてつもなく美しい映像で描かれているのもすごい。
 特に真田広之のさまざまな立ち居振る舞いには様式美的な美しさがあって、いやぁこの人本当にタダモノではないなぁと改めて思わされたりする。
 戦争のシーンも美しいし、(時々おやっと思う部分もなくはないけど)この時代の日本の世界観に没入できる舞台設定はとても素晴らしい。

 ということでだいぶダラダラと書いてしまったけれども、「シン・仮面ライダー」主役の池松壮亮はその出発点からとんでもない作品に出ていて、その中でも子供ながらにとんでもない表現を見せていた方なんだということを再認識しつつ、その上で自分にとって「ラストサムライ」というこの映画が、なんでこんなに毎回いちいち泣けるのかを再度考えてみたという次第。
 まぁご覧になっていない方にはなんのこっちゃだったろうと思うし、ご覧になった方でも私と違う感覚の方はたくさんいると思うけれども、この文を読んでもしご興味持ってくださった方がいたら、是非今からでも観てみてください。その上でまたみなさんの感想やお考えなども聞けたら本当にうれしいなと思います。

 …とまぁここまで書いてふと、敵である大村とは許し合わなくていいのか? 憎んでいる上司バグリー大佐とはどうなんだ?…なんて考えが頭をよぎったけど…どうなんだろ。
 バグリー大佐については多分、最終戦手前のところである程度理解し合ったってことなんだろうなぁ。お互い相容れないけど相手の考えは理解したというか…完全ではないだろうけどちょっと相手に対して敬意を持つ発端は見えたような…。
 大村については分からんなぁ。理想はお互いがコミュニケートして分かり合って認め合うことだろうけれども、映画の最後の部分で大村はただ失脚しているのでその辺りの心情は分からない。彼に反省の機会があるとすればこの後野に下ってからかなぁ…まぁ、野に下ってからもまったく反省する気配すら見せない政治家なんて腐るほどいるけどねぇ…。
 ネイサン側もおそらく、なぜ大村がそういう行動に出ているのか、大村なりの正義とはなんなのかとかにはおそらくまだ興味を抱いていない(悪人でも自分が悪だと認識して動いている例はそれこそショッカーくらいなもので、普通は(自分勝手ながらも)自分なりの正義があったりするのよ…まぁプーチンなんてそう見えるよね)。
 …なるほど、突っ込んで考えてみればここはまだまだこれからという部分なんだなぁ。この映画が描いている「許し」も、まぁ完璧に全部が全部とは言い切れないってことかもしれないなぁ。
 え? 屁理屈が過ぎますか? 考えすぎですか?…まぁこれも性分と言うか…まぁだから歌詞を書いたりする時にやたらと時間がかかったりするわけですなぁ…だっていろいろ調べちゃうからw…で、調べてるうちにそっちの話が面白くなって読み始めて歌詞を書くことを忘れたりするし…ダメじゃんですね;;;

※ちなみに写真は栃木県那須塩原市にある那珂川河畔公園の池に浮かぶスワンボート。
 夕焼けにスワンボートが羽を休めているというか、どことなくうらぶれて見えるというか…まぁちょっと勝手に哀愁的に見えちゃったという次第。多分スワンボートはなにも感じてないだろうし、感じてたとしても、彼らは彼らでそこそこ楽しい毎日を過ごしてるかもしれないしね…なに書いてんだw
※使用カメラ&レンズ:Canon EOS 6D + EF24-70mm F2.8L II USM

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紫水勇太郎・清水 豊

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