2020/04/24
みなさん、この新型コロナ禍の中、政府や官僚の対応もなんだかなぁという状態で大変な思いをしていることと思います。
そんな中、じゃあその状況下でどんなことを考えたらいいかなぁなんてことを書こうかなと思ったんですが…まとまりませんでした;;; いやぁなにせ、状況パターンや選択肢が多岐に渡ってしまって、書き始めたら、ゆうに連載5回分くらいにはなっちゃいそうな勢いで、これはここに書くというよりは、それぞれの方のケースに合わせて都度考えていく方がいいかもと思ったので、ちょっと今回は違う内容を書かせていただきます。
ということで今回はタイトルからしてパクリですw
サウンド・スタジオ「音庵(ねいおり)」のたなかまさや。先輩によるSpinart(スピナート)の連載記事「音の庵・正解のないお話し…其の5〜音圧戦争に思う事」を読んでちょっと思うことがあったので、それについて書いておこうかなと。
いやね、まさや先輩の記事に反論があるとかそういうことではないんです。
なにせまさや先輩は大先輩ですし、かつては私たちのバンド、クリムゾン・シャアのレコーディングからミックスからまぁいろいろお世話になった方でもありますし、今でもホントお世話になってますしね、反論するなんてとんでもない話なんですよ。
それにね、まさや先輩が書いている話は、こと音響という面から考えれば至極正しいことと思いますしね。
ただ気になったのが、この話、一般レベルではどこまでちゃんと理解されるものなんだろうなぁという、疑問というよりも心配を感じたという次第です。
ぶっちゃけ、聴衆側はそこまでいい音というものに反応できているのだろうかということですね。
これはなにも、聴衆側の聞く能力が劣っているとかそういうことではなくて、人間という生物が基本的に持っている性質が関係しているように思うんです。
つまり「大きいものにはより高い価値を感じてしまう」という性質です。
これは、かなり以前に電通さんだったかどこだったか、その辺りの大手代理店が実施した調査だったと思うんですが、ものとして大きなものと小さなもの、音として大きな音と小さな音…あとなんだっけな…値段だったかな?…記憶が曖昧で申し訳ないんですけど、とにかくそういう条件を変えた比較実験をやったんですね。
で、確か7割くらいの方が、それそのものの価値等とは無関係に、単に数値の大きい方に興味を示した、というような結果だったと記憶してます。
だから私たちも、もっとガツガツしてた若い頃は、プレゼンの際にプレゼン・ボード(ハレパネと呼ばれてたりもしますが)等を用いて、実際の原稿をより大きなボードとして持っていって恭しく見せたりしてたものです(さすがに最近はやらなくなりましたけど;;;)。CMの音がバンバンでかくなったりということが起こるようになったのも、この辺りが原因かもしれませんね。
まぁこれはもう30年も前の話なので今はだいぶ状況が異なっているとは思いますが、今、音楽界に起こっている事象としてどのようなことが考えられるかと言えば、例えばサブスクによる音楽配信が象徴的かなと思うわけです。
サブスクの大きな特徴の一つ。それは、アルバムという概念をほぼぶち壊してしまったということですね。つまり、バラバラのアーティストの楽曲一つ一つをランダムに並べて連続で聞くというスタイルになったということです。
すると、前のアーティストの曲と次のアーティストの曲の音量がものすごく違うなんてことに出くわすわけで、モノによってはその差が激しくて、例えばクルマの中のように他のノイズが多い空間で聞いているとその小さい方の楽曲が聞こえないということが起こります。
それならその曲の音量を上げればいいじゃんという話なんですが、これがホントに面倒に感じてくるんですよ。下手したら曲ごとに音量をいじることになっちゃう。んな面倒なことしたくない。でもその曲は好きだからしばらくは耐える。でもやがて面倒な気持ちが勝って、結局その曲を外したりするなんてことが起こるんです。
逆に、小さな音量の曲の後にでかい音量の曲が来ても同じですね。小さな音量の曲を聞くために適切なヴォリュームで再生していたら次に突然でかい音が鳴る。驚く。慌てて下げるわけです。しかしこの時、音の大きな方が悪いという判断にはならない確率が高いわけです。なぜなら前にも書いたとおり、大きい方に価値を感じるという深層的な下地があった上に、既に多くの楽曲が音圧戦争の渦中にあるのでだいたい大きな音の方が多かったりするからですね。
では、このまま果てしなく音圧戦争をやって、海苔波形の、ダイナミクスもなにもないような音が蔓延し続けていっていいのかということになるわけですが、この判断はつまり、それではいわゆる「いい音」とはどのような音なのか、そして、そういったいい音なら人の心を動かせるのか、という問いについて検討する必要があるように思うわけです。
細かくコントロールの効いた、レンジの広い表現によって、聞く人の心により強い感情や感動が生まれて、そこで鳴っている楽曲の魅力がより強化されて伝わるのであれば、音圧戦争には意味がないという論法に説得力はあると思うんですよ。
例えばよく言われているように、かつてはアナログだったから、耳では直接関知できない周波数帯の音やら倍音やらが実は聞こえていて、それによって人は心を動かされていた。そして今デジタルが普及することでそれがなくなったから、音楽に対する感情モチベーションを突き動かすことができなくなって、結果音楽業界を衰退させることにつながったんだ…なんて話があるじゃないですか。
これが本当にそうなんだ。そして、いい音であれば、またその状態を復活させることができるんだ。そのための障害が音圧戦争なんだ。ということならとってもストンと落ちるんです。
しかし現実はどうなんでしょ。
イヤホンとかについて言えば、確かに音の再現力はメチャクチャ上がってますよね。低音もウソみたいに出ます。でも多くは街の中を移動しながら聞いている。もちろん数多くのノイズの中にいますから、それによって楽曲内の音もだいぶマスキングされちゃってる状態と思います。
あ、ノイズキャンセルのブームってこの辺から来てるのかも知れませんね。ノイズキャンセルがあれば、そういった外部ノイズの影響を最小限に抑えて、楽曲そのものの音をかなり細かいところまで認知できるようになると思います。
でもこれきっと街で通常には使いにくいですよね。だって危ないもんw だとしたらやっぱりいちばん多いシチュエーションはノイズの海の中で聞くということになるんじゃないかなぁ…あ、聞くシーンをもっと細分化して考えればアリなのか。
例えば、ファースト・インプレッションとしての感情を感じる場面ではノイズキャンセルによる再現性の高い状態でその楽曲と出逢い、その後の日常では、その時の感情を記憶の中でシミュレーションしながら聞く、なんて感じかなぁ。
でも、ファースト・インプレッションの場って、ひょっとしたらPR広告やYouTubeだったりするのか?…だとすると、それらメディア側の音が改善されないと、そもそも最初の衝撃がないかもですね…う〜ん…なにかうまく辻褄が合っていないような感じがしちゃいます。
で、これはまさや先輩にも言ったことなんですけど、デバイス側の出力に調整機能がガッチリついているならこれはもう解決なんですよ。
でかい音は抑えられる。小さい音は増量される。そして平均化できる。そうすれば、海苔波形で作られた音には大きなぽっかり空いた部分ができちゃいますんで、当然その分表現できる場を損しているような状態になります。すると、だったらそこをうまく活用するために海苔波形的な作り方はよくないということになると思うんです。
しかし現実的にはまだこの機能はまったく過渡期で、今はまだ完全じゃない。だからちょっと辛いということかなと。
まぁ世の中的にはそういう方向に進んでいるんだということのようではありますので、これが完璧になることを祈るばかりですね。
でもどうなんでしょ。それでもやはり、いい音にするためにやるべきではないというのはちょっと論として弱いように思うんだよなぁ…ヤベ、なんか反論めいて来ちゃったw
つまりなにが言いたいかというと(ここまでゴチャゴチャ書いてきて今これかいw)、つまり人はどのような音楽に心動かされるのかという点からの議論がもう少し必要なんじゃないかなぁということなんですけどね。それを実現するための手法として、音のよさがとにかく重要でしょうということなら、それはホントにストンと落ちる話と思ったりします。
でもなぁ…例えば映像で言えば、4Kが8Kになったからと言って、それでそんなにメチャクチャ感動レベルが上がるかと言えばそうでもないんだよなぁなんてことも頭をよぎるんですけどねぇ…ブツブツ…。
このお話はホントに、まさや先輩も書いているとおり、現時点では「正解のないお話」だと思います。ですので是非、みなさんの意見が聞きたいところですね。その軸は是非「音楽を聞いて心動かされる要素とはなにか」というような論点で話せればいいななんて思うんですけど。
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