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Logo Markなにか創るとうれしくて音楽への片想い

紫水勇太郎・清水 豊

株式会社4DT 代表取締役
株式会社ワークス 代表取締役
Spinart運営者
YouTube「うさぎのうみちゃんねる」のおじぃ
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 今でこそ臆面もなく「音楽やってます」なんて言ってるけど、実は小学生から中学生くらいにかけての自分にとって、音楽はまぁ本当に苦手な分野だった。

 まず歌が上手く歌えない…と思い込んでいた。
 なんで「思い込んでいた」なのかと言えば、小さい頃から母親に、
「おまえは音痴だから。」
と繰り返し言われ、最初は分からなかった「音痴」という言葉の意味が分かるようになると、そのまま自分は歌が下手なんだと思うようになったという次第。つまり、本当に歌えないのかとか、音が取れていないならそれはなぜなのかとか、全然確認もしないまま、言われた通り自分は「音痴」なんだと思い込んでいたんですな。なので人前ではできるだけ歌わないようになる。もちろん好きではないから練習もしない。だからうまくもならない…という感じ。
 まぁ今思えば、少なくともお袋には言われたくないわなぁ。あの人の歌レベルで誰を評論できるってんだ。大体自分の息子に対し、ろくに検証もせずにネガティヴ刷り込みするってそもそも親としてどうなんだと思うわ。

 で、楽器も苦手っちゃ苦手だった。
 そもそも人前に出ることは嫌いじゃなかったくせに人前に出ると異様に緊張するという性質も併せ持っていたから、人前で楽器を弾けなんていう場面…例えば小学校の音楽の時間とかで時々ある奴…になると、よくある笛や鍵盤ハーモニカなら息や手が震えて上手く弾けないなんて感じで、どうにも上手くなかった…結果さらに苦手意識が増加することになった感じ。

 しかも先生が大嫌いだった。
 最高に嫌いだったのは中学1年の時の音楽教師、通称「デブピヨ」こと田口。
 こいつは音楽教師なのにいつも竹刀を持っていて、なにかと言えばそれで叩きながらいろいろなことを強要してくる奴で、おそらく教師の中の立ち位置としては当時教頭の次あたりにいたんだろうと思うけど、校長、教頭には平身低頭、生徒にはやたらと威張り散らすという最低な大人だった…まぁ本当にそうだったかどうかは分からないけど少なくとも当時の自分にはそう見えていた。
 で、私ゃそういう奴が大嫌いだったので折を見ては逆らって、その度に竹刀で叩かれてましたとさ。
 で、こいつの主任教科である音楽でサラっといい成績でも上げられればかっこいいんだけど、前述の通り歌も楽器も自信が持てず、さらにこの頃までは学ぶ気もないから当然テストの成績も悪いわけだからバツが悪い。
 で、人生初でかつ唯一の「2」を通信簿につけられたという次第(5段階評価)。
 音楽が「2」よ。よくその後やる気にやったよなぁと我ながら思ってみたり。

 しかし音楽的なことは嫌いじゃなかった。
 実はまだ学校の友達の誰にも言ってなかったけどその時点で既に家にギター…ありました。5,000円の、サウンドホールの中に「教育用」って大きく書かれた紙が貼ってあるクラシックギター。
 小学校4年か5年の頃、転校前の学校の友達だった柏木君の家に遊びに行った時、「買ってもらったんだ〜」とギターを見せびらかされて自分も欲しくなって、当時まったくおねだりとかしなかったのにその時は一か八かでしてみたら奇跡的に買ってもらえたという一品(柏木君のお母さんが後押ししてくれたんだと後で教えてくれたっけ)。
 とはいえ誰に教わったということでもなく、一緒に買ってもらったクラシックギターの教則本だけを頼りに練習したくらいなのでろくに弾けず(なにせ書いてある楽譜が読めなかったしw…そう言えばタブ譜なんていう便利なものもなかったっけなぁ)、そのまま埃を被ってましたとさ。
 しかし中学くらいになるとギターが弾けるなんて言うと格段にモテたりするわけで…というかそういう奴が周りに出てきて(今でも仕事を一緒にやってる藤田拓人さんとか…まぁこいつは小学校時代から野球チームのエースだったりしたのでギターがなくてもモテてたけど)、ギターが弾けたらこんな自分でもモテるようになるかも等と極めて根拠の薄い期待をしたりして、ちょっと自分もやってみようかななんて思ったりするようになる。

 でもどうしていいかマジで分からない。手元にあるのは初心者用のクラシックギター教則本。で、テレビやらに出てきてギターを弾いている人と見比べたりしてもなにかどうも違うように見える。その教則本の通り練習した先にあの世界があるように見えなかったんだなぁ。考えてみれば持っているギターの形もどこかが違う。

 ここで突然隣のお姉様乱入。自宅の隣に、とっても美人の麗しきお姉様が二人いたんだけれど、これがまぁだいぶSっ気の強いお姉様で、毎日シミズの下手なギターの音やら下手な歌が聞こえてムカっ腹が立ったんでしょうなぁ…もういきなり呼びつけられてコードブックを渡され、
「コードってなに?」
なんて聞こうものならその本をパラパラとめくって、
「とにかくこれとこれを押さえられるようにして。」
とか言われ、その上、
「この歌を弾けるようにしろ。」
とか言われる始末。で、できないなんて言ったらもうかなりボロクソに言われるだけなので、なんとかしてできるようにするしかない…あはは。
 しかしそのお陰でなんとかコードを押さえてジャンジャカストロークすることくらいはできるようになって、だからさだまさしの曲もだんだん弾けるようになったりしたんだけど、時代は「ニューミュージック」と呼ばれた今振り返るとなにがなんだかよく分からない、とにかく歌謡曲以外のアーティストは雑多になんでもそこに放り込まれていたような人たちがごわ〜っと出てきていた時代。吉田拓郎、井上陽水、かぐや姫、荒井由美といったビッグネームは先輩たちのもので、自分達の世代としてはさだまさし(当時一番好きだったから筆頭w)、松山千春、アリス(あははここまではアデランス・ブラザースだw)、海援隊、チャゲ&飛鳥、雅夢、チューリップ、ゴダイゴ、サザン・オールスターズ、ツイスト、チャー、甲斐バンド、オフコース、柳ジョージ&レイニーウッド、もんた&ブラザース、クリスタル・キング、RCサクセション、スペクトラム、矢沢永吉、長渕剛、岸田智史、さとう宗幸、ふきのとう、NSP、久保田早紀、八神純子、竹内まりや、ばんばひろふみ、五十嵐浩晃、堀江淳、伊藤敏博とだいぶバリエーション豊かな面々がいて、さらに原田真二やYMOが出てきて寺尾聰が大ヒットすると、もうすごい音楽で溢れかえっているような状態になっていた気がする。
 とはいえこれらものすごいみなさんの共通項はおそらく自分達の楽曲を自分達で作って演奏していたということかなということで、これは歌が書けないといかんと思い始めたりする。

 でさ、びっくりしちゃうのは前出の藤田拓人(当時は早乙女さんでした)なんだよね。
 ある日学校へ行ったら奴が、
「曲を書いた。」
とか言って、五線紙をぴらぴらさせてる。それまでも一緒に歌詞を書いてそれにコードを振って、少しずつだけど作曲のマネごとのようなことはやり始めてたんだけど、とにかく音楽の成績で「2」を取るような状態だったから音楽理論はおろかとっても初歩的な楽譜の書式さえ知らない状態で、そこから先にどう進んでいいのかなんて分かりもしなかったのに、奴はいきなり楽譜を書いてきたのだ。なんでそんなことができたんだ?…とか思っていると、奴にもこれまた美しいお姉様がいたので、
「そうかお姉様に教わったのか。」
なんてうらやましく…いや、妙に合点してみたりした。

 しかしこれはまずい。このままではだいぶ引き離されてしまう。あいつにできるなら自分にもできるはず…いや、スポーツは無理よ。だってあいつは小学校の時から野球チームのエースだもん。こちとら立派なチビの運動音痴ですから。しかし机上のことならできるはず。だってテストの成績はいつも自分のが上だったもんw
 ということでマネをして書いてみる。しかし分からない。もうなにをどこから手をつけていいかも分からない。段の頭に書くこの変な記号はなんだ?…その後にシャープやフラット(これは知ってた)がついたりつかなかったりするのってなんだ? その他の記号もあらかた分からない。当時はなにせインターネットはおろかコンピュータすらテレビの中のウルトラ・シリーズ以外では見たことがなかった世界。調べようと思ったら図書館しかないのだ。
 行きましたよ。で探しました。で見つけたのが音楽辞典。黒いハードカバーのめちゃくちゃ分厚い、そして中には意味不明なことがてんこ盛り書いてある…でもきっとこの中に答えがあると思って借り出して…でもなんにも分からなかったなぁ…だって基礎的な知識がなさすぎたもん。

 そしてもう仕方がないので先生に聞きました。
「作曲の仕方が知りたいんですけど。」
…と。
 そう、なにが幸いしたって、あの大嫌いなクズ教師デブピヨは既に転勤していて、音楽の担当は当時おそらくはまだ30歳台だった女性教師、二戸きそ子先生に変わっていたんですねぇ。
 で、放課後、誰もいない音楽室…お〜、なにかが起こりそうなこのシチュエーション。しかしなにも起こらないw だってこちとら真剣ですからね。その頃一緒にギターをかき鳴らしていた野球部の4番バッターだった通称マチコと二人で、先生が黒板に書くことをとにかくメモリまくって、さらに質問しまくって…なんてことが多分3回くらいあったかなぁ。当然そんなことで音楽のすべてが分かるはずはないんだけど、それでもなんとなく分かったような気にはなれて、楽譜を書くための取っ掛かりくらいにはしっかりなったという…いや、二戸先生の教えがなかったらきっと挫折してたって。そのくらい重要なポイントだったんですよ。

 で、まぁその後稚拙ながらもだいぶたくさん曲を書いて、卒業間際には前出のマチコと二人で二戸先生に披露する機会もあって、そこで二戸先生がちょっと泣いてくれたように見えたから俄然自信をつけちゃって、で、さらにガシガシ曲を書くなんていう沼にハマっていくんですなぁ。
 二戸先生、今どうしてるかなぁ。もういいおばあちゃんだろうなぁ(こっちも完璧なオヤジだけど)。ある程度ちゃんとできるようになったら逢いに行きたいななんて思ってるうちに、結局なにもできないままこんな歳になっちゃったなぁ。
 でも今でも音楽に片想いしつづけて、そしてまだ、もっといいものが作れるかもしれないなんて思えるのも、この時の二戸先生のおかげでございます。本当に心から感謝。そしてもちろん藤田拓人にも感謝。彼がいなければきっと、自分の音楽的な気づきはもっともっと遅かった…いや、気づかないまま終わっていたかもしれないもの。

 で、話をここで終わらせないのは、実はこの後にもう一人重要な友人が出てくるからで、彼の名を中村昌範と言ったりする。今は栃木県宇都宮市の「ORQUESTA de ごじゃる」というラテン・サルサなバンドでパーカッションを担当していたりするのだが、高校生になって彼と出逢ったのがまた大きかった。
 高校生のくせにJazzだFusionだとのたまわり、Casiopeaのコピー・バンドで神保彰を完コピして見せたかと思うとピアノもうまくてサラッとおしゃれでジャジィ〜なフレーズを弾いたりする。で、その技術が重宝されてなぜかLoudnessのコピー・バンドで叩いていたり、女の子ヴォーカルのバンドを手伝ってたり、まぁありとあらゆることが器用にできたというすごい奴だった。
 彼と知り合った当時の自分はと言えば当然にJazzやFusionなんて知るわけもなかったから、なんじゃそりゃとなっていろいろと聞き出しては、当時出てきたレンタル・レコード屋でせっせと借りてはカセットにダビングして聞いてたものだった。
 いやぁ正直、CasiopeaもSquareも渡辺香津美も渡辺貞夫も日野皓正もマリーンもリー・リトナーもスティーヴ・ガットもセロニアス・モンクもビル・エヴァンスもジョン・コルトレーンもマイルス・デイヴィスもアート・ブレイキーも…なんていうあたりの面々は、彼がいなければ聞かなかったかもしれないし、そういえば当時、彼が言っていることを理解したくて「Jazz Life」なんていう雑誌を毎月読んだりしてたもんなぁ。結果、そこに出てくる他多くのアーティストを聞いてみたりして、掲載されていた楽譜問題なんかを解いてみたりして、だいぶ音楽的な知識が増えたものだった。

 ということで「音楽への片想い」として書き始めたものの、途中から3人の紹介みたいになってしまったけれども、つまりは、当初いろいろと苦手意識を持っていた音楽が、いろいろな方々のお陰で今に至れているというお話でした。
 あ…今もしどこかでデブピヨに逢ったらあの頃叩かれた分を叩き返してもいいですかね? それとももっと早く傷害罪とかで訴えればよかったかな?(証拠つかんどけば良かった〜…当時はスマホなんてなかったからなぁ…) 教師だからといって竹刀で生徒を叩いていいはずなんて絶対にないと思いますので。

※ちなみに写真は那須高原りんどう湖ファミリー牧場の中にあるMekke!カフェの壁を撮ったもの…だったっけなぁ…確かそんな気がw
※使用カメラ&レンズ:Canon EOS 6D + EF24-70mm F2.8L II USM

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