2019/12/09
魚の切り身を夢にみた。胃の腑に収まる夢をみた。太郎も居た、次郎も居た。皆、円るく成って手を挙げて、ワッと云って歓んだ。
やぁあねこの子、寝言云ってるわ、と誰かが言って通り過ぎた。
全て夢の中の出来事である。
三つ目の駅を過ぎて気が付いた。目の前には史邦が見た男の姿はなく新聞だけが残されていた。
男児志をたてて郷関を出づ
学もし成らずんば死すとも帰らず
とは、嘉永六年三月十七日坂本権平が弟、龍馬の江戸出立のおりその背に朗々と吟じた詩である。
龍馬は江戸京橋桶町へと旅立った。自分はこれから馬関へ行く。
車中でふとそんなことを思ってみた。しかしながら兄権平の吟じる学というものはどうでも好い。それはこの際どうでもいいと史邦は感じていた。
馬関へ立つ前日、彼は叔父の家へ招かれていた。とうぶんの間顔が見えなくなるだろうから馳走しておきたいと招いてくれたのだが、果たしてとうぶんのことにになるやらどうやら本人はまだ決めかねていた。その席で、ついぞ飲みなれない酒に、飲めば飲めるものだと自分に感心しながら、量を過ごしたがために、ほとんど料理には手をつけなかった有様であった。
「ほんに、ようやった、」
「何がです、」
「お前が、さ程勉強できるとは知らなんだ、」
「失礼なことを言うとる、」
とは、言わない。
「先方の都合でしょう、」
内心、史邦も事の結果に意外に思ったことは事実であった。
子供の頃から学校では問題児の部類に属していた。その彼が、上の学校へ進んでも、ことさらに、自分をその類から離れさせようと考えなかったことは、子供心にも先生の息子、先生の息子とはやし立てられ、ある種のコンプレックスを周囲から確立させられてしまった時期に、どうやら要因があるらしい。
例えば、五年生の担任の女教諭は彼の為に壁にグラフを貼り、忘れ物の黒印を塗りはじめた。出来て当たり前としか受け取らず、そういう教諭の態度を周囲の子供達は敏感にも捕らえてしまって、史邦を孤立させてしまった。それから先が問題である。彼は周囲の全てが馬鹿馬鹿しく思えて仕方なく、覚めた目で黒印の増えてゆくのを日々見詰める様になってしまった。
(阿呆か、)
そんな気でいた。
そんな気でいたものだから、日々の宿題は何うでも好く、天井迄伸びてしまった黒印に、ある日、女教諭は狂喜してしまったのである。
「中村くん、前へ来なさい。」
「またか、」
「———、今、あなたは何と言いましたか、」
「———、」
女教諭は子供達の習字した紙の上に置かれてあった文鎮を、手から額に放ってしまった。
命中したからたまらない。史邦は額から血を流してしまった。
が、泣かない。
(それゃあ、方法が違うんで、)
女教諭は、鮮血の流れる児童の顔に脅え、しかも、その形相を自らつくったことに成すすべを忘れ、立ち尽くした瞬間の後教員室へ泣きながら飛び込んでしまった。
(えらいことになった、今晩あたり、また連絡されてしまうのだろう、)
そういう感覚は、史邦には常につきまとうものであった。
このことより二年程にあっては、音楽教室にギターを習いに通っていたのだが、その白髪先生が、ある日晩飯の後にやって来られ、なにやら母親と話し込まれていた。それを、史邦は感覚で理解した。当時まだ家にいた叔母がそれとなく様子を話してくれるのである。
「史ちゃんは音楽などせんでもええ、男の子じゃったら他にやらないかんことが何ぼでもあるんよ、」
(やっぱり、ばれたか、)
為になるだろうと、母親が頼んで通わしてもらった白髪先生からは、手におえんので通ってもらっても本来の意味のないことを告げられ、それより後日、長い道のりを隣町まで歩かなくてもよくなった。
史邦は叔母ちゃん子である。
余談だが、祖父は地域でも名の通った人物で、きっぷがよく、世話好きであり、終生他人のことで明け暮れた自由党の政治家であった。その為に、家中の台所は常に火の車であり、事実、屋敷の北面を占める蔵が建つ半分の敷地を食いつぶしたものである。彼の人望は極めて高く、土地の有識者から任侠の徒に至るまで、何らかの形で関与していた。そう云う祖父が四人の子供を持つ。その次女が史邦の、いわゆる叔母であり、三番目に唯一男児が授けられたのが父である。
子供達の内で、一番父に似ていたのがこの叔母であった。そして、父親はこの娘が男であればと何度思ったであろうか。
叔母は街では八幡太郎とよばれた。
こう云う話がある。
娘時分のこと、晩飯時に祖父が何かを言った。なにを言ったのかは解らないがひどく彼女を傷付けるに充分な一言だったに違いない。一瞬の後、彼女は意外にも皆が囲むお膳をひっくり返して立っていった。
それから後、史邦の祖父である父が、
(怒りゃあがった、)
と、平然と一言言っただけで終わってしまった。両人共に後がない。
そう云う叔母であった。
男勝りのそう云う叔母に史邦は育てられた。彼女の膝に擦り寄ってゆく。
「おーおう、よう来たよう来た、史ちゃんか史ちゃんか、」
ことさらに大袈裟に迎えられ、また、史邦はその感触がたまらなく好きであった。しかし、彼女の愛は溺愛に終わることはなく、あくまでも確固たる彼女の信念に基づいたもので出来上がったものであった。些細なことでも見逃さず、否定する態度たるや、まさに中村の八幡ここにありである。
が、優しい。
史邦は叔母が好きである。あるいは、実の母よりもなをその比重は大きいかもしれない。
今、ふと思うに、彼女は女である自分を持て余し、くやしく思ったことが幾度かあったのではないだろうか。
いや、余談であった。
話が脇道にそれてしまった。それてしまって、あえて行を費やしてしまったのであるが、とにかく、史邦という男、出来は良くない。少年時代における彼はただボーとしているだけの印象しか与えない。
さて、史邦である。
重そうな袋をひとつ背負っただけで、岡山駅の構内にいる。
十番線から地下街を通って改札をでた。一番街を抜け駅前商店街へと上がる。その商店街の中程の婦人靴の店へ立ち寄った。
「これから下関へ行くところじゃ、」
「お前も変わりもんよのう、ついこの前までは会社を営っておったもんが、今日から学生に逆戻りか、」
「学生にはなるが、逆戻りではない、」
お前たちは四年を順当に済ませたまでのこと、俺の四年はこれからじゃという意味である。
会社経営は失敗ではなかった。実績は設立後半年間で、業界の中堅的存在になる程の貢献を示した。その史邦の会社、いや、史邦ともう一人の男とで機能せしめた会社が空中分解してしまったのには人的要因があった。
「お前は人が良すぎる、」
とは、事後の彼を知る者の弁。
人の好いのも馬鹿の内ともいう。
(そうかも知れぬ、)
負債の返済に日々を追われながら、そうかもしれぬ、そうかもしれぬ、と、自己嫌悪の内で幾度となく彼はつぶやいたものだった。だが、人間は憎めない。どうやら、本来憎むことができない様に出来上がってしまっているのだろうと思ってみたりもしていた。
事実、家系的にもそう云う人間は、過去にも輩出されてはいない。その辺りの、自分を形づくる要因のことも何かしら感じていたのではないか。そう見える節もなくはない。
とにもかくにも、一切のわずらわしさを片付け、史邦は車中の人となった。が、行く先は下関の方向ではない。まるで見当外れの方向へ移動している。あたかも、むやみに移動することで過去の仕組みやしがらみからの解放を全身で歓び、受け留めているが如く、と書けば余りに小説的であろうか。静かではあるが、確実に躍動をみなぎらせたなにかを体内に感じながら、むやみに移動している。
大阪の人ごみは以前から変わりなく、孤独を演じるにはもってこいの風景である。
淀川、尻無川、木津川、長堀川、道頓堀川、それ等河川の帯の分だけ地図に空間が空いた様なものである。そのどれかひとつに身を投じても、孤独は孤独でなおも存在し続けなければならぬ様な、そんな思い切りを必要とする不思議な風を呈している。しかるに、一端思い切ってしまうと、これ程機能的に住み良い土地柄を他に知らない。
史邦は既に動きだしていた。大阪には降りない。その足で一気に京都まで移動してしまった。
駅構内に降り立つと、ひとつ大きくあくびをした。
何のことはない。寝過ごして京都まで来てしまっただけのことである。
(どうしようもないな、)
精算を済ませ、近鉄奈良線に乗り丹波橋で降りる。そこから京阪電車に乗り換え、枚方を過ぎ香里園で電車を捨て、徒歩になる。
かつて、中村の八幡太郎と呼ばれ、史邦の少年期を形成した叔母が、ここに居る。
史邦二十五の年である。
叔母は、その一生を独身で過ごしこの年に至っている。
四人兄弟の末っ子が嫁ぐ運送屋の手伝いで、いくつの歳であったか、この町に住む様になった。
その叔母を訪ねてみようと思ったのは京都からでしかし、ひとたび思い立つや、後は無性に気がはやり、しだいに足の速くなるのを覚えた。
既に、夜。
西口を出たところを右に、線路に沿って二十メートル程行った所をくぐり抜け左へ折れる。外科の診療所を過ぎて右に入った所が商店街。変わらぬアーケードの下を、これまでに幾たびか来て頭に残る店の並びを一軒一軒確認しながら抜けてゆく。
右の並び、出口から二軒目が散髪屋。その向こうが文具店。
覗いてみる。
(いるいる、)
「兄ちゃん、」
馬鹿でかい声をあげたのは、運送屋に嫁いだ四番目の叔母の娘、春江であった。
「よおー、おった、おった、」
「いつ来たん、」
「京都回りで今着いた、」
春江は、とろけるような顔で瞬間に察した。
「またやったんやろ、」
「また、やった、」
まっすぐに着いたためしがない。
「先に行ってる、早く帰って来いよ、」
「待っててくれんのん、」
「あっちの方が先客じゃ、さっきからハサミ持って待ってるぞ、それにこの荷物じゃ重うてかなわん、」
店の中からハサミを持ったまま、温厚な男が顔を出した。
「来はったん、」
「今ね、」
「春江ちゃん、よかったな、後であまえたらええ、」
春江は史邦から目を離さない。両の手をつないだまま、背後の男に、
「おっちゃん、もうええわ、」
そう言った。
「ええわ、て、何が、」
「もうええ、」
膝を折って春江の顔を間近に見て、史邦は彼女の耳もとでささやいた。
「わしゃあ、きれいな春江がみたいんじゃ、」
「はるえ、きれいもん、」
困った表情である。
「もう半分残っちょる、はようきれいになって来い、そのままじゃあ気色悪うてかなわん、」
とろけるような笑顔で春江を見詰めた。
店の男が肩を押して入る。
(よし、)
「アッカンベー、」
笑った。
灯りが見える。
台所の硝子戸の向こうに人がいる。
それをたたくと、動きが止まって勝手戸が開く。
中から覗いている。しばし待つ。意地悪く先方が確認するまで声は出さない。
「お兄ちゃん、」
「来たよ、」
と、ひょいと上がり込む。
「表へ回ったらええのに、」
「この方が楽じゃ、」
「恵子、お兄ちゃんよ、」
「兄ちゃん、」
二階から恵子が降ってきた。
昔からこうである。こういう来訪の仕方しか史邦は知らない。
「兄ちゃん、叔母ちゃんとこ行った、」
「まだ行ってない、」
と、史邦は言わない。
既に、恵子はダイヤルを回し始めている。
「春江をみたよ、」
「さっき、床屋に行ったとこ、気づいてたみたい、」
夕食の準備をしながら、しゃべる時だけ振り返り、春江と恵子の母親は声を発する。
「美人になっとった、ありゃあ年頃になると男達が騒ぎそうじゃ、恵子の比じゃあないみたいだ、なあ、」
「そうかしらん、」
とは、恵子。
「やくな、やくな、その顔がたまらん、」
「そうかしら、」
と、今度はやけに艶っぽい声を出す。
「それがもう駄目じゃ、」
叔母は台所を続けながら、ふと手を休め、水屋からコーヒーカップを出す。
「恵子、お兄ちゃんにコーヒー、」
「ありがとう、」
「何も気がつかん子やなあ、」
「ほんに、そこがもうたまらん、」
「馬鹿、」
馬鹿が一人でコーヒーを飲んでいる。そこへ勝手口から、八幡太郎の叔母が現れる。
「おばちゃん、」
「おーォ、史ちゃんか、史ちゃんか、よう来た、よう来た、」
「それ、止めたら、」
と、恵子の母が言う。
「そうよ、もう三十よ、」
「———二十五、」
叔母は殆ど隣に位置するアパートに部屋を借りている。その部屋から生駒山系の北端が覗かれる。部屋は終日、冬の太陽が絶えることなく注がれ、きびしかった筈の今来を暖めているかの様であった。
この部屋から、現役の春、京都へ受験するべく早朝出て行ったのは、もう何年前のことになるであろうか。学生服の上にコートを羽織り、電車の中から雪をかぶった京一帯を見て、その雪の白さについに溶け込むことのなかったあの頃からは、距離をおいてここにいる。そう思った。
そう思ってから、トイレの水を流した。
叔母の部屋にて、ひとしきり話した。話している間に、おそらくは不満を期待で埋め、期待が勝った春江がやって来た。文化住宅の鉄の階段がかわいらしく鳴り、扉の閉まるのを待たず、次の間に座った史邦の首へともつれた。
春江の無邪気さに、やっと一緒になって構ってやれる自分に今さらながら気付かされた。
「はしゃぐな、はしゃぐな、」
と、言う史邦の方がよほど嬉しいらしく見えぬ風もなく、史邦を中心に春江が回っている。
「春江ちゃん、兄ちゃんしんどいよ、」
「春江、きれいになったのう、」
と、春江の顔を両手で定めて覗き込む。
この穏やかなる春江の家庭が、まもなく崩壊するのを史邦はまだ知るよしもなく、翌朝叔母の家を出た。
出る間際、叔母から手渡された銀行の封筒には二十万円が入れられていた。手渡す際に、二つ入っていると言われたので、そうですかありがとう、ともらっておいたのであるが、妙に胸ポケットがかさばるものだと思いながらも駅迄ゆき、切符を買った時に気が付いたのである。
史邦は叔母の家の方角へひょいと頭を下げて改札を通った。
連載小説「デッサン いろはにほへど」をまとめて読む
(1)門出の花
(2)馬関へ
(3)陸援隊
(4)桜の木
(5)憂
(6)惨風
(7)思案
(8)思案その二
(9)物情騒然
(10)刺客
あとがき
準備中