2020/01/03
硝子戸の外に雨音を聞き
天井の板に蜘蛛を這わせて
如何して落ちて来ないのか不思議がり
ひっくり返って活字を拾い
程良い箇所でひっくり返る
後は意のまま思いのまま
力量放出大局観
大阪から京都へ上り、山陰回りで防長二州、山口へ入った。
途中、史邦は鳥取で浅越に会っている。彼については後で触れることにするが、彼の配慮により受験料を賄うことができたのである。
ここでは割愛する。
鳥取から更に西へ、揺られ揺られて萩城下へさしかかる。東萩駅に立つ。下関迄まだ百キロはある。
先に記したのは、その日、旅館での史邦の落書きである。
雄藩城下町、萩。
かつては長州藩毛利氏三十六万九千石の居城地であり、文久二年、二十八歳の土州藩士坂本龍馬が訪ねた城下である。
とにもかくにも、まだ史邦は後百キロを残して、開明的であった地萩にいる。
明日はそこらでもぶらついてみることにしようと床の中でおもった。
果たして、翌日は朝から荷袋を背にぶらぶらとうろついていた。
「ついに諸侯たのむに足らず、公卿たのむに足らず、草莽の志士糾合義挙の外にはとても策之無事と私共同志中、申合居候事に御座候。失敬乍ら尊藩も幣藩も滅亡しても大義なれば苦しからず。」
とは文久二年正月二十一日、久坂玄瑞の武市半平太宛の書簡の文面である。
明倫館の格子窓に頭を挟んで中を覗いている荷袋一つの史邦の背景に勝手ながら流してみたのではあるが、どうも適確ではなかったらしい。久坂玄瑞の明快強烈さに比べ、なんとこの物語の主人公たる史邦の雲をもつかむような姿であろうか。当然のことながら、当時の彼ら思想家の危機感を期待することは誤っている。
おそらく、もう顔面の両端に二筋の格子の痕跡が認められるであろうしばらくに渡って、板の目から腰板は云うまでもなく、天井の梁に至るまで、そして、そこに今、素足を思い浮かべて覗きこんでいるのである。目玉だけがみょうな具合で気味が悪い。
待つことにしよう。
しばらくの後、格子からやっと離れた。離れぎわに、自分が弱いからだとつぶやいた。何のことだか分からない。意味不明である。
下関へ入ったのは四月七日の昼過ぎになった。南口改札を出て、だらだらと大学までを歩く。歩くと二十分程度の道のりになる。小さい山を上りきったところがその校内で、正門の手前を左に折れると寮が見えてくる。
彼が当初寮を選択したのは、別段これといった意味があった訳でもない。
寮にたどり着くとむやみに静かで、やがて初老の男が奥からやってきた。
(寮監だな)
硝子越しに錠をはずし、おめでとうと満面の笑みでいった。
(みょうなものだ)
と、おめでとうという思考回路を持ち合わせていない史邦は思った。
(めでたくはない)
「お一人でこられたか、」
すっとんきょうな顔をしているのは史邦である。
「別に、どなたとも待ち合わせをしておりませんが、」
「いや、そういうことではなく御家族の方かどなたかと、」
「いいや、」
寮監の感覚を察しかねた。
「部屋はどこです、」
うっかりしていた、部屋まで案内しようというが早いか、どんどん先へ歩いてゆく、
(他の者はそうするのか)
頭の中では考えを及ぼしながら、遅れがちになる意外な速度のこの男の足に追従してゆく。
まさか、自分以外の家族の者を連れてきてどうする。大学に合格した礼でも言わせるのか。それとも、息子をよろしくとでも言わせるのか等々。
(馬鹿馬鹿しい)
この部屋が今日からあなたの部屋で、だからこの机はあなたの自由に使ってよく、この書棚もそうですと、こういう説明をかつて史邦は聞いたことがなく、ぼんやりと男の顔をながめていた。ながめているとうっかりその気分に乗せられてしまい、うなずいてしまった。一通り説明をして、一人にしてくれた。
化かされた様だと気付くのに少しの間を要した。
これもそうだが、この三階の部屋に連れて来られる間に誰一人として姿を見せなかったものだから他の者はどうしたかと尋ねると、四階に一人居て他に人間は居ないと答えた。四月七日といえば今日がそうで、遅くとも七日迄には必ず来てくれろと連絡を受けたが、あれは何かの間違いかと尋ねれば、私が通知したのだから間違いではないと言う。
その日の夜のことである。
日中は四階から聞こえてくる音がとぎれとぎれに聞こえはしていたが、それでも人の気配がほとんどしないということは、それはそれでまた好いものであると思ったりしていた。
風呂は四五人は入れそうな大きさに造られていた。
誰もいない。
浴槽からの窓を開けても隣の建物の塀しか見えない。
穴ぐらへまぎれこんだ様なものだと思ったのは、湯舟につかっていて四階の住人だろう男の入って来たのを見ての印象である。
頭は方々に伸びた癖毛が独特で、それが、初めは湯気に隠れていた風貌と妙な具合で均衡がとれ、まるで原人のようだ。肌が黒い。
(いるいる、こういう奴がいるんだ)
史邦は、何も持たずに入って来た男に石鹸を貸してやる。
「洗面器かしてくれはりますか、」
「使うたらええ、」
「おおきに、」
関西言葉を操る原人は、即ち四階の住人であった。
(こいつがそうか)
泡だらけにした頭を掻きながらしきりにしゃべり出した。
「実に馬鹿にしてるわ、」
寮監のことである。
六日迄には遅くとも入寮してくれろと通知があったので来てみると、誰も寮にはいないのである。そのことを言っている。
「ところで、現役か、」
「そう見えるか、」
「失礼かもしれんが二浪程に見えるわ、」
「———、」
「いや、失礼しつれい、」
「あ、いや、そんなもんじゃ、」
実のところ、その程度にしか史邦は見えない。細身のせいかもしれないが、顔付がいかにも木造であり派手さがない。身長一メートル七五センチ、で、体重五十五キログラム。しかし、意外に大きくみえるものである。
「後で、部屋へ行ってもいいですか、」
丁寧語である。
これには訳がある。
この男、話の頃合いを見計らって干支を聞いてきた。
「酉、」
(しまった)
酉の筈がない。どうコロンでも酉の訳がないのである。酉であれば昭和三十二年になってしまうのだから。
この年、現役は三十八年生まれであった。
別に隠すつもりは毛頭なかったのではあるが、言わなくてもいいものであればそれに越したことはないと思っていた。
何の気なしに口をすべらせたことに後悔したが、もうどうでもいい。
しかしながら、頃合いを見て干支を聞いてくる等は、いかにも都会の子供らしくて、その後妙におかしさが残った。
寮は日に日に人数が増えていった。
当初、関西言葉を操る男を見て、かなりの遠方だと思ってはいたが、どうもそうではないらしく、様々な言葉の中には関東言葉、あるいは関東以北の言葉もたまに耳に入ってくる様である。
その関西からの男。
そろそろ名を出してやらなくては面倒になってきた様だから、以下表記することにする。
どういう訳か、辛島は一週間程で関西言葉を捨ててしまった。自然、口数が減った。ほとんど史邦の影響であろうかとは思われるが、子供が新しい言葉を覚えた時のごとく、むやみに、
おえん、ヲエン
を繰り返している。
ヲエンは即ち駄目だということであり、おそらくは何なにを得んから独立したものかともおもわれる。
とにかくも、風呂の一件以来史邦に付いて離れない。
時間がある。
降って涌いたような時間がある。
(何を成すべきか)
その日、朝から史邦はこう思っていた。
いつかは朽ち果て崩壊してしまうのが自然のなりゆきであるならば、いっそのこと朽ち果てさせ、あるいはまた崩壊させてみるのもそれはそれでいい、と。
志士ハ溝壑ニソノ身ヲ在ルヲ忘レズ
勇士ハソノ首ヲ失ウヲ忘レズ
と、いう言葉もあるから、何をしてよいか分からんが姿勢だけは、まずはこれでゆこうと結論をした。
入学式の時刻となり、大講堂にはそれぞれの思惑の服がずらり並んだ。その中にむろん史邦の姿もあった。
それにしても、なんと母親の頭数の多いことであろう。閉口したことに大講堂入口前で子供を叱る光景があった。
「あんたがぼやぼやしとるからじゃが、何なにちゃん早う、」
母親の叱咤を受けた新入生とはからずも視線があってしまった。
(すまん)
その二人は史邦の背後を擦り抜けて大講堂へ一組で入っていった。
辛島が史邦に付いて離れないことは先に触れた。
この日も、隣で神妙な顔をして肩を並べて座っている。
いささか父兄の量にうんざりしている史邦は、どうもまじめになれない。
「おまえは一人か、」
「ハァ、」
間の抜けた声である。
「いや、いい、」
「ハァ、」
更に辛島は聞き直したが、史邦は聞いていない。鼻をほじっている。鼻をほじりだしたかと思うと、次に辛島が横を向いたときにはもういない。ぷいと消えてしまっていた。
(どうも分からぬ人だ)
と、辛島が思ったのも無理はない。
しかし、
(こりゃあいい)
と、数瞬の後、彼は好意的な興味を史邦に覚えた。
後を追ってみようと思ったのは史邦が退座してしばらくの後、某氏の祝辞が長過ぎると満座が感じ始めた時のことであった。出入口にたどり着いた時、丁度その祝辞は終わった。祝辞が終わった瞬間に扉が開いた。開けたのは辛島ではなく、彼はノブに手を掛けただけのことであり、後日分かったことだが扉の向こうから入って来たのは教務の人間だった。
「どこへゆく、」
凄みがある。
一瞬たじろいだ。
ほうほうの体でその場をかわして外に出た。
外はこの地方には珍しく、陽光さんさんと降りそそぎ、それが青葉に反射して極めて陽気溢れる様を示していた。
辛島が外に出ると、丁度今出て来た建物の前には入学式終了後の人波を予想して、あちこちに各サークルの勧誘係が思い思いに机を並べて待機していた。未だ連中は準備中ではあったが、聡いものは辛島を発見しとりあえず帳面とペンをとり、他のサークルに先んじ駆け寄ってきた。
その文科系サークルの勧誘員は辛島を捕まえて離さない。
「君、新入生ですか、もう式は終わりましたか、」
「新入生ですが、式はまだ終わってません、」
「そうですか、御入学おめでとう、我部は君の入学を待っていました、」
「うそをつけ、」
と、史邦ならば言ったであろうが、辛島は言わない。
「是非とも我部に入ってくれたまえ、それともどこか見当があるんですか、いや、そんなことはないだろう、君、是非とも我部へ、」
矢継ぎ早にまくしたて、辛島の目の前へやたら帳面をつきだすのである。
「あっ、一寸いいですか、」
言うが早いか、もう辛島は帳面を奪い取っている。
男は喜んだ。喜びついでにペンも受け取れと、かなりひっこくせまる。
「学籍番号となまえをかいてくれればいい、それと現住所、———寮ですか、」
辛島は帳面を見ていたが、
「これは、」
と、指をさした。
「それですか、それは君と同じ一回生だ、気持ち良く書いてくれたぞ、」
史邦の名前がそこにあった。
勧誘員のかなりの強要に根負けしたかはいざしらず、既にここ数日の間に史邦の感化を受けた辛島は自分の名前を下に記した。
連絡をとるからと解放してくれた男が去り、それを皮切りに次々と他の部員にもみくちゃにされながら、辛島はどの部の帳面にも史邦の名が記されていることに気が付いた。
そう思うとなにやら急に気が抜けた。
名前を書くだけでいい。名前を書けばそれより前の署名は無効であるといわんばかりにどんどん押し付ける。芝生にごろりと横になった史邦がいる。はじめからそこに置かれてあったかのごとく、柴の緑に半ば同化した史邦が向こうをむいてころがっている。それを見つけた辛島が歩み寄ってゆくと、史邦の方から声がした。
「よう、出て来たか、」
まだ、向こうをむいたまま鼻をほじっている。
「そうぞうしいのお、」
「ええ、まあ、」
そこは、大学自体が小さな山の腹に位置しているために、まるで箱庭のごとく下方が眺められるのである。
そこへ、
「よっこらしょ、」
と、言って辛島は座った。
太陽が明るい。
「ほうかほうか、入ってやったか、」
「だから、入りゃあしません、」
「そうか、」
「そりゃあ、そうです、」
「お前が茶道部ねえ、」
「もうええです、」
連載小説「デッサン いろはにほへど」をまとめて読む
(1)門出の花
(2)馬関へ
(3)陸援隊
(4)桜の木
(5)憂
(6)惨風
(7)思案
(8)思案その二
(9)物情騒然
(10)刺客
あとがき
準備中