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Logo Mark連載小説・デッサン いろはにほへど(10)刺客

平松将史

1957年3月8日生まれ。
岡山を中心に長年愛されてきたフリーマガジン「月刊CAMNET」の編集長。
日本におけるインターネットの黎明期からネットラジオ「radio ...

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 学祭の仕事も何かと形になって来ていた。パンフレット用の広告取りもあらかた目途がつき、編集の段階に入ろうとしている。が、まだまだやることは多い。そうした中、自己嫌悪を忙しさの中に掻き消してしまおうとする史邦がいた。
 今日も今日で、学生課の窓口に史邦の顔がぬうっと入っている。
 「じゃ、そういうことでお願いしますよ、
 相手は徳永であった。」
 去ろうとした史邦を追って、徳永が出て来た。
 「おいおい、ちょっと待て、」
 「はあ、」
 「やったらしいのお、」
 「———」
 「金、払ったってほんとか、」
 「金?」
 思い出してしまった。
 (クソッ、忘れようとしよるのに、興味本位で騒いでくれるな)
 「阿呆じゃ、何もお前が全部払うこたぁねぇのに、」
 「どうせ、阿呆ですから、」
 「フフッ、」
 「おかしいですか、」
 「お前も、俺と似とるのお、いやぁ、若い々々、」
 と、一人で納得して、「まあ、頑張れや、」と言って、内側へと消えていった。
 (クソッ、面白がっていやがる)

 「それどころではない、」

 何か、面白い企画はないものか。
 「えい、まゝよ、」
 例の通りの顔ぶれが実行委員室に並び、仕事に夢中である。森元がコーヒーを配っているところへ、史邦は入っていった。
 「ちょうどよかったわ、はい、コーヒーをどうぞ、」
 「あゝ、ありがとう、」
 と、コーヒーを前に、
 「ちょっと皆、聞いてくれ、」
 と、当たるか当たらぬかの、思いつきの企画を説明し始めた。
 「今回、もう日にちもなにもあったものじゃあないが、人をよぶことにした、」
 「今からですか、」「今からじゃあ無理でしょ、」と、異口同音。
 「誰ですかぁ、誰よぶんですぅ、」と、中の一人。
 「海援隊じゃよ、」
 「カイエンタイ?」
 「武田鉄矢のカイエンタイじゃよ、」
 「また、またぁ、冗談ばっかり、半年はかかると言うとりましたよ、交渉に、」「あのクラスになると、やはりかかるんじゃろうなぁ、」「半年じゃあ足らんのと違うかい、」「そうじゃ、そうじゃ、」「足らん、足らん、」
 結局、
 「無理ですよぅ、」
 と、いうところに落ち着いた。
 「あのなあーーー無理かどうかやらんで分かるものか、」
 「でも、ねえ?」
 「でも、じゃあない、今作っとるパンフの表紙はこれでいってくれ、」
 と、差しだしたものを見ると雑誌の切り抜きであった。
 「うわっ、何ですかいのこりゃあ、」
 「品がねぇのぉ、これ表紙に使うんですかぁ、何だかカンボジア辺りの難民って感じですよ、これ、」
 「これが、武田鉄矢じゃ、」
 どこで仕入れてきたのか、B4版の雑誌の切り抜きの全面が顔である。しかも、横向きのその顔は白黒のモノトーン。垂れた髪の毛が目尻のしわから下に伸び、毛穴を覆っている。
 武田鉄矢扮する坂本龍馬の、将に横顔の写真であった。
 「こういうのって勝手に使っていいんですかね、」
 「おえんじゃろ、が、致し方ない、使わせてもらえ、」
 「で、パンフの表紙にこれ使って、どうするんですか、」
 パンフレットの表紙に武田鉄矢を使うことと、彼を学祭に呼ぶことがどこでどうつながるのか、ということである。
 「それはな、」
 こうである。
 「だから、急げ、」

 まともに武田鉄矢と交渉を持つとなると、まず、彼の所属するプロダクションに申し入れをしなければならない。が、しかし、それは何ヶ月も以前からしておかなければならず、ほぼ後半月たらずという時期に来てすることではない。しかも、例え充分な交渉の時期が持てたとしても公演料を予算内ではとうていまかなえないであろう。当たり前の話しである。それなりの知名度の者を呼ぶ場合、その経費は外でまかなう以外にはなく、世の常である。そのぐらいのことを知らぬ史邦ではない。また、まかなう経費が利益を産み落とすことも承知である。が、いずれもこの場合にはそぐわない。
 史邦の考えではこうなっている。
 「できぬものをできぬと言ってしまえば、それはもう後がない、できるものをできると言うには能がない、できぬものも、もしかすれば、できるものの変態か、」も知れぬ。
 武田鉄矢ひきいる海援隊が解散することとなった。
 海援隊という名は、そもそも坂本龍馬を中心とする脱藩浪士がする活躍の場、あるいはその機構をもって命名したことに由来する。武田自身、今をさかのぼること百二十余年の昔、世界の海援隊ならぬと欲し、風雲急を告げる幕末日本を舞台にところ狭しと東奔西走した坂本龍馬、その男に魅かれ、龍馬たらんとしその母体の名称をとり海援隊としたのである。
 その海援隊の解散が決定し、ラストコンサートで全国を歩いていた。馬関にやって来る予定があるという。さて、それを捕らえよう。
 「会いにゆく、」
 会場へである。
 「楽屋へ通してもらう、それが駄目ならば会場ででもええ、」
 時間や金から礼に至るまで何もない。ただ、意気込みだけはある。現状にいつまでも甘んじている訳にはゆかぬのである。例えば、誰もやらない学祭が現に存在しているという点においてもいえることであろう。あるいは大学全般に渡る問題。いつまでも今のまゝでいい筈がない。また、そのことに気づいている者も少なくはない。
 その辺りの何ものかを察してくれるのであれば、海援隊諸氏にも賛同は得られる筈である。
 「会場で、どうするんかいの、」
 「歌でも話しでも、合間にパンフの束を投げちゃる、」
 「そらぁえぇ、」「そうじゃの、」「誰じゃって自分の顔の写真ぐらい分かる訳じゃから、」「しかも、こねぇでこう、のお、」「そうじゃそうじゃ、」
 「そこでじゃ、無理を承知で言うだけ言うてみる、講演や歌までとは言わぬ、ただの五分でもええから学内を歩いてくれちゅうてな」
 「そうか、おもしれぇのぉ、」「おう、」
 「ただし、期待のしすぎはおえんでょ、万にひとつの賭けじゃけぇ、」
 「もうしちょる、」
 (面白いのお)
 その騒ぎの後、連中の仕事の手が速くなってくるのであった。
 史邦がどこまで本気でこの話しをしたものか定かではないが、多分に本気であったのであろう。この男にはこういうところがある。自ら追い込んでおき、その反動で事を起こすという面。それがこの場合、そうなのかどうかわ分からない。まあ、いずれにせよ面白くはある。
 「冨永さん、できてますか、」
 と、一人が実行委員長のパンフレットに載せる言葉を考えてきたかどうかを聞いてきた。
 「まだだ、できてない、
 とは、場の雰囲気が雰囲気だけに委員長としては言えない。
 「できとるぞ、」
 「ください、他はほとんど段取りが終わりましたから、あとはそれを載せるスペースを考えなきゃあ、」
 「そうか、」
 冨永は机の向こう、その男の手元を覗き込むようにして、
 「えらい、」
 そう言った。
 「えらいのお、しめて一週間じゃ、よう頑張った、」
 間をひとつおいて、
 「で、俺のスペースの予定はどうなっちょる、」
 実行委員長としての冨永の言葉は『大学祭において』というパンフの扉のあいさつの文句と、連中を常にリードする代表としての『編集後記』の二ケ所の空間に掲載予定で、それぞれに半ページのスペースがとられてあった。
 それにしても、広告取りからたった一週間でパンフ作製の原版がほぼ完了したのは驚異的な速度である。冨永の他にうむを言わせぬ見事な引率力に他ならない。リーダーシップのひとつの型である。不平すら出て来た口に押し込めるだけの頑とした姿勢をとっている。
 (すべては学祭が終わるまでよ)
 そう思う冨永の風貌は頼もしく史邦の目に映っている。
 (好漢じゃな)
 史邦はまた、
 (すべては学祭が終わってからよ)
 と、思った。

 森元を宇部まで送り届けて寮へ帰ってくると冨永が待っていた。
 「遅かったのお、何しよったんじゃ、」
 「これで今日は二回目じゃな、」
 「何が、」
 「今日おこられたのはこれで二回目じゃ、」
 「頼みがある、」
 と、てきぱきと言葉をつなげてゆく。
 「いいよ、」
 「ひきうけてくれるか、」
 「あゝいいよ、念にはおよばない、」
 「そうか、たすかった、」
 下駄箱の前から始まったやりとりは歩きながらつづけられた。
 「俺ゃ苦手なんじゃ、」
 部屋へ入るなり、史邦はいきなり引き出しの中から紙片をとりだした。
 「これでいいと思う、」
 と、手渡した。
 「何か、」
 「そのことを言うとったんじゃろう、ちゃんと考えてある、」
 冨永は紙片の上に目をおいた。
 『大学祭において、
         実行委員長 冨永修一

 第七回一宮祭を開催します。
 開かれた大学は公共的場所となり本来の意味を取り戻す事が可能となるのです。
 機能はそれが組み立てられた時からすでに一人歩きをしているのです。
 そして、この一人歩きをしている大学機関を、どうぞ、この数日間に限る事なく、幅広く皆様の御役に立ててください。
 私達はこの地域を共有している学生であります。』
 更に二枚目に目をはわすと、
 『編集後記
 かつて此の地に憂へた若者たちが居た。
 彼らは戸惑い、或は、狼狽し、それでもその急なる訪問者と生きた。
 それから百年、この地に憂へた若者達が居る。暗中模索、或は錯覚の念もしばし。
 けれども、立ち止まってはならない。
 頭をかかえて徘徊し、二日酔いの頭で更に百年、生きてみるのも好いものだ。
        実行委員長 冨永修一』
 この『大学祭において』はパンフレットの扉に、『編集後記』はスタッフ紹介の後最終ページにそれぞれ載せられている。
 ちなみにこの年『憂』の実行委員のメンバーはスタッフ紹介によると、
  実行委員長 冨永修一
  副委員長  中村史邦
  企画担当  古閑泰史
  広報担当  古谷博志
  編集担当  田中隆史
  渉外担当  中川和明
  体育会担当 三浦 孝
  会計担当  森元純子
  警備担当  小柳直史
  初期担当  光田信明
  音響担当  巳之口潔
  映画担当  梶村浩樹
  美術担当  槙野茂樹
 と、なっている。

 「考えちょったんじゃ、これでゆけ、」
 「———おお、これこれ、まさにこれじゃ、」
 「使うたらえゝ、」
 「しかし、俺にもお兄さんみたいにものが書ければのう、まあいいか、こういうのは俺には無理じゃ、」
 「えゝがな、」
 「よっしゃっ、今晩は飲みにゆこう、」
 「———久しぶりに飲もうか、」
 飲んで一件以来の尾っぽを捨ててこようかと思った。
 闇の中、下駄箱を探り、裏口から音をたてずにぬける。階段下で熊谷とすれちがった時にぬけた後の施錠を頼んだ。こうしておけば後で寮監に小言をくらうことはない。寮生の常套手段なのである。また、はいる時にも寮監の見回りの後あらかじめ開錠を頼んでおくか、そうでなければ、灯りのついている窓にむかって小石をぶつける程度のことでなんなく中にはいれるという寸法である。古今を問わず考えつきそうなたわいもないことなのだ。
 新下関駅近辺まで歩いて二十分ほどはかかるであろうか。当時その付近まで行かなくてはこの辺りには酒を飲ませる店はなかった。飲み屋ばかりか、駅一帯までは暗い一本道の観を程していたといったほうが当たっているかもしれない。この街が急速に変化し始めたのはいつの頃からであったか、それはたぶん史邦たちが三回生になってからのことだから昭和五十八年あたりではなかっただろうか。大学へつづく道路が倍の広さまでひろげられ、様々な店が軒をつらね、宅地が分譲されるまでには長期を有しなかった。
 あたかも暗がりをぬけ新下関駅の正面へ出た。
 「ここじゃ、」
 と、冨永は階段を駆けあがった。
 『集い』は冨永等ソフトボール部員が常連として、ことあるごとに利用していた店である。
 「そうか、ここか、」
 と、看板を見あげていると、ふと暗がりの方でものの動く気配がした。ふりかえったが別に変った様子もなく、人通りの少ない通りはいつもの有り様であった。
 (妙だな)
 誰かに終始見られているような感じがした。
 店での冨永のうけはよく、その性格の明白さが好まれているようであった。
 二人はしたたか酒を飲んだ。
 「つぎへゆこう、」
 と、誘ったのは史邦の方である。
 「よし、つぎへゆく、」
 と、多少こころもとない足どりを愉しむかのように、二人は歩き始めたのであった。
 「いやあ愉快々々々、」
 っと、また史邦は感じた。
 (いる)
 気配があった。が、ふりかえるとまたしても先程と同じで、誰もいない。
 「お兄さん、どうしたんじゃ、」
 「———小便じゃ、」
 と、高架になった道路の上から放出した。
 「そりゃあえゝ、おいもじゃ、」
 と、並んで股ぐらから睾丸まで掴みだした。
 放物線が二筋、闇にむかってとんでゆく。
 (おんなじ格好をしていても俺の方がよっぽど上品じゃな)と史邦は思った。
 と、またもや先程の感覚がよみがえった。
 (いる、確かに誰かがこっちを見ている)
 「ふたりじゃな」
 「げえっ、」
 ぼそりと冨永は二人いると言った。それに驚いたのである。
 「わかっていたのか、」
 「しっ、」
 「———」
 「ゆこう、」
 「あ、あゝ、」
 「お兄さん、」
 と、小声で続ける。
 「この先に空き地がある、そこで待とう、」
 更に、今度は大声で、
 「味善で潰れるぞお、」
 と、わめいた。
 わめいた足でどんどん大股で歩を進める。
 (かわった奴だ)
 気付いていないと思った冨永の方が人数まで知っている。史邦はその闇の中の男?がどこをどういうふうについてきているのかさっぱり分かっていないのである。ただ、気配だけはあった。
 かどの酒屋を右に折れると、ほとんど味善の手前といってもいいところに果たして冨永の言う空き地があった。改めて思えば、そういえばあったなと史邦が思う程に、史邦の頭の中の地図には欠落した場所であった。日頃、勤め人や学生たちが通りぬけをしている空き地である。その空き地に、
 「お兄さん、とびこむぞ、」
 と、冨永が言う。
 「よし、」
 「いまだ、」
 冨永と史邦の二つの影が、すっと闇にまぎれてしまった。
 影はあわてた。
 酒屋をまがると史邦達の姿がない。アジゼンに入った形跡はどうもありそうにない。
 (気づかれたか)
 「———いや、気づく筈はない、」
 「どこかにいる、」
 「あの闇だ、」
 「———たぶんな、」
 「どうする、」
 「やるしかなかろう、」
 「でも、冨永は手ごわそうじゃ、それに見張れとは言われたがやれとは言わなんだ、」
 「気づかれたいじょうはーーー、」
 「めんどうだ、やるか、」
 こちらがやられる筈はないと影は言った。頭数からいけば二人対二人で同数ではあるが、中村は勘定に入れなくてもよいと言う。ならば二対一だから勝算はある。
 「すべて闇の中のことよ、」
 形勢不利と見きれば闇にまぎれてしまえばいい、後日に事を残さなくても済むと、そう踏んだ。そのためにも、
 「裏から忍んでゆこう、」
 史邦ら二人は息をころして石になっているであろう。だから、その注意は正面にむけられて凝っている。背後からつけば、この勝負こちらのものよと影は喋った。
 「一息に潰せる、」
 史邦をである。
 どうやら目標は冨永ではなく史邦の側にあるらしい。しかし、勝敗の目標を、影は冨永においた。この時完璧に史邦は無視されてしまった。
 影は裏をまわり、冨永等二人が潜む闇にちかづいた。
 (返り討ちとはこんなものか)
 と、影の一人が愚にもつかぬことを思った時、影は闇と同化した。
 (どこだ)
 まさに暗中模索、手探りで、しかも気配を消して忍び寄る。
 (どこで待ち伏せている)
 湿った草が足元に触れる。
 おそらくはあの辺りだろうと、影は正面に目をすえた。身を低くたもち、静かなる動きすらとめて微動だにしない。夜目が効くのを待つつもりであるらしい。影は闇の中で先の二人の後を追い石になった。
 風が動いた。石以外には感じることができぬ微妙な変化である。宇宙がおおきくゆっくり移動している。
 (おや)
 目の前の黒色に深みがでてきた。心臓の音以外何も伝わってはこない。
 と、突然、影のひとりがすっくと立ちあがった。立ちあがりざま、
 「おらぬわ、」
 と、漏らした。
 「なに、」
 「逃げられた、」
 「ほんとうにおったんかいの、」
 「と、思う、」
 「さっき冨永がアジゼンと言うとったの、」
 「あ、」
 「そんならその店に居るんとちがうか、」
 「いいや、俺らのことは気づいている筈じゃ、もう姿はないじゃろう、」
 「のうのうと酒などくらってる暇はないか、」
 「念のためじゃ、おまえ見てこい、」
 と、ひとたび暗がりから通りにでると、ほんの目と鼻の先にぶら下がっている提灯を顎で指した。
 「そこがそうじゃ、」
 真っ赤な提灯に墨で焼鳥味善と書かれた文字が目にはいった。
 「おれがか、」
 と、頼りなげに、しかも目玉は提灯から離れない。
 「はよういけ、」
 男は決まりが悪そうに、心を残して店の灯りに近づいてゆく。
 「あ、」
 と思った瞬間、男は店に入ってしまった。
 「馬鹿が、外から覗くだけで好いものを、奴らがおればどうする気だ、」
 史邦と冨永は、冨永の言葉を合図にひとたび闇に潜んだ。
 「ここで奴らを待って返り討ちにしよう、面もわれることじゃ、」
 と手頃な物陰に身を隠しながら冨永は言った。
 「いや、たぶん上の寮の者だろう、」
 「わかるのか、」
 「俺にはわかる、」
 史邦には分かっていた。ここ二三日の間どこにいても誰かに見られている感がつづいていたのである。
 (おそらくは上の寮の者に違いない。奴らの暴力問題をかぎつけられたとでも思っているのだろう)
 「待ち伏せてどうするんだ、」
 と、史邦。
 「返り討ちじゃーーーそれより何でお兄さんの後をつけるんじゃ、心あたりでもあるんかの、」
 「後で話す、ここは俺に考えがある、ひこう、」
 「俺ならいいぜ、どうせお兄さんの喧嘩じゃ、」
 風が動いた。
 女主人が、
 「まあまあ、」
 と、多少あきれた顔で迎えた。
 「どうしたの二人とも、」
 二人は裏口から入ってきた。
 「客がおらぬ、」
 と、ぶっきらぼうに冨永が言う。
 「ちょっと訳ありでね、」
 と、裏口を閉めながら史邦は、
 「もうすぐ客も増えることじゃろ、」
 と言った。
 「中村さん、今度ちょっと時間とってもらえる、」
 一人息子の素行のことで以前から史邦の意見を聞きたがっていた女主人は、日を改めていっそのこと息子を引き合わせようと思案しているようである。
 「いいですよ、」
 「わぁ嬉しい、」
 よほど手を焼いているのだと思いながらも、史邦の頭中には別のことがあった。
むろん、影のことである。
 「今日は私のおごりね、気持よく引き受けてくれたお礼よ、」
 と、多少精力のあまる一人息子の一件がすべてかたづいたかのように女主人は、それまでの雰囲気を一変させた。それほどに苦になっていたのであろう。
 「任せなさい、お兄さんに任せとけば心配ない、」
 と、勝手なことを言う。
 「そうとうワルよ、どこでどう間違えたのかしら、」
 育て方をである。
 「番長よ、」
 「ほう、そりゃあ頼もしい、」
 と、冨永。
 「なんだか、ワルがふたりで聞いていて、話しの持ってゆく筋が違うような気がする、」
 と、横目でワルを見ながら言う。
 「そりゃあねぇだろが、お兄さんよ、」
 「いえ、わたしは中村さんだから頼んでるんです、あなたなら大丈夫、」
 と、いやに真剣な目つきで酒を注ぐ。
 (えらく気にいられたもんだな、なんだか気味が悪い)
 そう思った時、客が現れた。
 「あ、」
 客は棒立ちになった。
 おそらくは史邦たちがもうそこにはいる筈がないとふんで安心して入口をまたいだのである。
 冨永はすでに座ってはいない。男の背後にまわり込み肩を掴んでいる。
 「座れ、」
 と太く沈んだ声色で言う。
 冨永の言葉に自然足が動いた。小さく作られた座敷の奥へ、そこはちょうど史邦と卓をはさんで正面になる。冨永は男の横へ腰をかける格好で、男の逃げ口をふさいでしまった。
 「ほれ、」
 と、史邦は銚子を差しだした。
 「よぉきたよぉきた、まあいけ、」
 手にした猪口に酒を注がれて男は気をとりもどしたが、、なんでこうした構図になってしまったのか自分でも判然と掴めないままに、見事に青ざめた顔のまゝ盃を飲みほしてしまった。
 「やあ、いけるいける、ほれもひとつ、」
 さすがに男は緊張している。
 「のまぬかッ、」
 と耳元にある冨永の口から大声が発せられた。
 「ひょ、びっくりするなあ、もそっと柔らこうに、」
 とろけるような表情で史邦は酒を注ぐ。
 妙な感覚が男の胸にわきおこってきた。
 (おかしい)
 男はつい先程までいだいていた史邦のイメージと目の前に座って酒を注いでいる男とは別人ではないかと思った。そう思ったほどに聞かされていた印象と合致しないのである。案外、隣で大声で恫喝する冨永よりも自分の方がずっと親しい間柄だったのではないかとまで思えてくるのであった。
 「中村さん、」
 と女主人は目くばせをして手招きで史邦をよんだ。
 「大丈夫かしら、」
 「ふむ?」
 「ほら、」
 と視線でさす。そこには冨永が険しい目付きで男を睨みすえている。ものすごい殺気だ。男の方はと言えば、注がれたままの盃を持ち、しかし目はそこには落ちず、ただぼんやりと化かされたような顔つきをしている。
 「心配ないよ、大丈夫々々々、あれじゃあなんにもおこにぬ、」
 史邦は冨永にそれとなく告げ、ひとり裏からぬけた。
 「寒いのお、」
 星が煌めいている。澄んだ夜だ。
 ぐるりと店の表へとまわる。
 店の脇、暗がりに背中がある。
 その背中をなにげなく通り過ぎようとして、史邦はつと立ちどまったのであった。
 「よお、」
 男が振りかえった。
 「俺だ、」
 ぬっと顔をだす。
 「わ、」
 突然なことに男は驚き、一二歩よろめいた。と、瞬間史邦は男の背をぽんと押す。
 「いらっしゃい、」
 間のぬけた声で女主人が客を迎えいれた。女主人と顔が合った時にも、
 「いらっしゃいませ、」
 と、ほほ笑んだ。
 「お、おまえ、」
 きっと史邦を睨みつけ、態勢をととのえた男にむかって、
 「上じゃよ、」
 と史邦は言った。
 「な、なんか、」
 「二階で酒を呑んじょる、」
 「———」
 「ついておいで、」
 すたすたと男の前を通りぬけ階段を登りだした。まったくの無防備である。
 男は迷った。
 「お二階ですよ、」
 と女主人はほほ笑んだ。
 「わ、わかっている、」
 成り行き上、男は従った。
 史邦が襖をがらりと開けた。
 座敷には冨永の顔があった。先程と寸分たがわぬ表情で、ひとり男を従えている姿はまるで野武士だと史邦は思った。
 「この馬鹿が、なんばしよっとか、」
 史邦は連れてきた男をほうって三人になった。
 「ほう、おまんも九州もんね、」
 「じゃったらなんか、」
 「おいは薩摩じゃっどん闇にまぎれてひとばつけたりゃあせんち、」
 「———」
 「誰かッ!」
 「?」
 「誰がつけっち言うた、」
 「———それはーーーどうでんよかろうもん、おい、」
 と、きちんと正座した影の片割れにむかって言った。
 「帰るぞ、」
 「ナンカッ!」
 冨永が顔から火を噴いて吠えた。
 「まあまあ、おまえもつっ立つとらんで座れ、酒がまずうなる、一緒に呑まんかよ、」
 「酒など呑めるか、かえるぞ、」
 冨永が今にもとびかかろうとしたその時、
 「わしゃあ帰らぬ、」
 (えっ)と史邦と冨永は内心驚いた。
 「帰りたきゃあひとりで帰ってくれ、わしゃあ呑ましてもらう、」
 「えっ、」
 「わからんか、わしらえゝように使われとるんじゃ、佐藤さんから聞かされとったには、ありゃあ嘘じゃ、」
 「嘘、」
 「嘘じゃ、間違うとる、そう思うた、」
 「な、なにをいう、気でも狂ったか、」
 「狂っているのはーーー」
 「———なんだ、」
 「狂っているのはむしろーーー佐藤さん達の方じゃあねえじゃろうか、」
 「げえっ、」
 「わしゃあ、この人を見てそう感じた、そうは思わんか、なにも感じんか、」
 「か、帰る、」
 「ほんによお言うた、そうか、男じゃっどおまんは、さあ呑め、」
 冨永が銚子に手をかけた時、立ったままでいた入口の男の姿が消えた。
 男は一息に飲みほした。
 「中村さん、」
 「ん、ああ、」
 「酒をもらえますか、」
                   (了)


連載小説「デッサン いろはにほへど」をまとめて読む
(1)門出の花
(2)馬関へ
(3)陸援隊
(4)桜の木
(5)憂
(6)惨風
(7)思案
(8)思案その二
(9)物情騒然
(10)刺客
あとがき

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1957年3月8日生まれ。
岡山を中心に長年愛されてきたフリーマガジン「月刊CAMNET」の編集長。
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