2022/02/25
ヘヴィメタル、プロレス、モータースポーツをこよなく愛するマーケター。
常に、カスタマー(お客様)の心を揺らし、「ステキ」創りをストーリーをもって実現することで成功に導く活動をしてい...
野林徳行です。
「Spinart」にてマーケティングコラムの連載をさせていただいています。
アーティストのみなさんと接する機会も多いのですが、どんな人の心を揺らしたいのか、何を感じてほしいのか、人に言いたくなってしまうことはどうしたら起こるのか、そもそもあなたのアートによって人はなぜ幸せになるのか…答えは1つではありません。でも、常に考えていたいですね。そんな皆さんのヒントになれば幸いに思います。
49回目のコラムです。今回は、先日、助成金制度推進センターの「あしたのミカタセミナー」にて、対談させていただいたイラストレイターの小渕暁子さんについてコラムにしました。
小渕暁子さんは、元内閣総理大臣の小渕恵三氏と、エッセイストなどとして活躍する小渕千鶴子氏の長女です。
玉川大学文学部芸術学科卒業後、グリーティングカードメーカー企画室を経て、1994年に独立しaube designを設立。イラストレーター・グラフィックデザイナー・ファッションデザイナー・エッセイストとしてご活躍されています。イラストを中心にステーショナリグッズ、タオル、ハンカチ、エプロン、ネクタイ、メガネ等のデザインと商品企画、企業のブランドマークデザイン、デザインコンサルタントを手掛けています。温かみのある作風で人気があります。
シチズン時計から女性用眼鏡フレーム「VISAGE(ビサージュ)」シリーズ11モデルを2005年に発売し、メガネ部門で2005年グッドデザイン賞に選定されました。松下電工の宅内用監視カメラ「ペポットカメラ」のデザインも手がけています。2010年上海万博において日本産業館のアテンダントユニフォーム、事務局スタッフユニフォーム、トイレ博士、マスコットキャラクター昆昆(クンクン)のデザインを担当しました。また、父への追憶を記した著書を出版したり、「たいせつなちきゅうのたいせつなともだち」という絵本も出版されました。そんなステキ創りの達人から、人の心を揺らすには!ということを学んでいこうというテーマの講演でした。
幼稚園ではほとんど話さず無口で静かな子で、ひとりで絵を描くのが好きだったそうです。すでに自分の空間を創り、アートが始まっています。
小学校1年の時には、右手の指を金具に挟まれ大怪我してしまい、ずっと包帯生活していたそうです。右手が治った頃には左手も器用に使えるようになり、現在のイラストはペンは左手、筆は右手を使うことが多いそうです。大怪我が右手も左手も使いこなすアーティストのきっかけの1つにもなったようです。
小学校高学年では、セロファンを窓に貼って、ステンドグラスのようにしたり、卒業文集の表紙や、文化祭のポスターなどを黙々と描いていたそうです。前に出るタイプではなかったようですが、表紙やポスターなどは自分が「それをやりたい」主張または、「それができる」オーラを出していないとできていないと思います。それとなくそれを伝える能力があったのでしょう。作るなら小渕さんだよね!的な雰囲気だったようです。そして、その頃の差し込む光と色の組み合わせが、絵本の色合いに繋がっているように感じるとおっしゃっていました。絵本は、原色ではないステキな色がたくさん組み合わさっています。このときの映像が今の作風に大きく貢献しているようでした。
小学校6年の時はハンダゴテを使いこなしラジオやブザーをつくったりしていたそうです。絵を描くだけでなくものづくりも好きだったようです。このものづくりの体験が、イラストだけでなく様々な商品のデザインや機能にまでかかわることになったのでしょう。
育った家は、東京都北区王子の下町風情がある古い一軒家。総理大臣を務めた方の家です。いつも家には10人位の人がいたそうです。時々知らないおじさんや、知らないおばあさんが家にいたりして、襖を開けるのが怖かったと笑っていました。たくさんの政治家を目指す人を教えていたり、多くの経営者の方と情報交換をしていたようです。ここでもたくさんの経営者の方の考えていることや創り出したい夢などを感じていたようです。企業コラボにも意欲的なこともここで培われたのですね。でもちょっと人は怖かったのか、人間と話すよりも、動物と話すのが好きだったようです。絵本には、動物だけでなく野菜や玄米など生き物のステキがテーマになっています。
中高美術部では油絵を始めます。美術室は、珈琲と油絵具の香りで、時間の流れがゆっくりで、癒されたそうです。うっとりとした感じでお話しされていました。6年間、放課後はずっと油絵を描いていたそうです。
16歳の夏にお父様の薦めで、イギリスに留学し、イギリスの音楽、アート、世界の中の日本を感じ、衝撃を受けたそうです。このころは日本にとっても洋楽という最先端のものへのあこがれがかなりありましたね。この時に感じたことが、将来に大きな影響を与えてくれたそうです。
大学は油絵専攻し、中高教員免許も取得したそうです。自分が感じてきた世界を子供たちに伝えたいという思いが強かったようです。玉川大学を選んだ理由は、木彫、石彫、塑像、木工、染色、陶芸、彫金…と、自然の中で、全てを体験出来るということが魅力だったとのことです。
すべてのエピソードが、今の小渕さんのアートにつながっているのがわかりました。
みなさんも今さまざまなチャレンジされていると思いますが、つまずくこと、方向性に悩むことが多々あると思います。幼少から今まで、区切り区切りでの挫折や復活があったと思います。そのとき、後悔していること、これがあったので今があると思えること があると思います。そのときどきの自分の判断基準を振り返って確認してみることで今の悩みを解消する軸のようなものが出てきます。もしよろしければみなさんもやってみてください。
私の体験でも、美術大学やクリエイター人材会社で講演をしていて感じるのは、作品を成し遂げたり、世界観を作り上げたりしてアートに進んでいく方と、そうではない決断をするが序列社会には興味がない人、何をしたらいいかわからない人、求人が多いのでよく調べずにとりあえずゲーム会社に入ってしまう人、講演でも質問があるのに手をあげられなくて教卓の近くでもじもじしている人とかがいます。クリエイターあるあるだそうです。
小渕さんはどうだったのでしょうか?
大学卒業の頃、クラスメイトは、美術教師、学芸員、乃村工藝社、丹青社、広告代理店など、さまざまな職種に就いたそうですが、小渕さんはお父様の仕事を手伝いながら、夜間は児童文学の専門学校に通い、イラストレーターを目指したそうです。いつも街中で人物スケッチをしていたそうです。
当時募集があったデザイン会社でアルバイトしながら、ステーショナリーメーカーにイラストファイルを持ち込むと、直ぐに採用の電話がありデザイナーとして採用されたそうです。ここでも人見知りのわりには思いついたらすぐに行動してしまうところがあるようです。そして4年たったところで社長から、会社にいるよりフリーでどんどんイラスト・デザインを生み出した方がよいと言われ独立します。もちろんその会社からは変わらぬ発注をしてくれたそうです。winwinですね。外注として、グリーティングカードのデザイン、数百点などを手掛けたそうです。そして、伊藤忠ファッションシステムとデザイン契約し、ライセンスブランド「instyle」を立ち上げたくさんのステキを生み出していきました。
この日の講演は、対談というよりも私がモデレーターで小渕さんを引き出すという構図でしたが、突如小渕さんが「私もたくさん質問を用意してきました」と言い始めました(笑)。デザインやキャラクターを生み出す側の小渕さん、それらを活用して世界観を世に送り出す私、両側のディスカッションになっていきました。とくに世界観を無視した「活用」でもなく「利用」になってしまいがちなものをどうステキに昇華させるかということについて楽しいディスカッションとなりました。また機会があればこのへんもレポートしようと思います。
2時間という時間で他にもいろいろ聞くことができました。講演でずっと話し続けることばかりしてきた私の、チャレンジとしてのモデレーター体験ですが、感性一発勝負で行ける方はうらやましいですが、下調べ・打ち合わせのおかげでステキな会にできたと思います。
ステキを追求しているアーティスト・表現者のみなさんは、長い道のどんな場所にいるのでしょうか?
ヘヴィメタル、プロレス、モータースポーツをこよなく愛するマーケター。
常に、カスタマー(お客様)の心を揺らし、「ステキ」創りをストーリーをもって実現することで成功に導く活動をしてい...
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