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Logo Mark「ステキ」をベースに考えるインディーズ・マーケの肝巨星墜つ!アントニオ猪木

野林徳行

ヘヴィメタル、プロレス、モータースポーツをこよなく愛するマーケター。
常に、カスタマー(お客様)の心を揺らし、「ステキ」創りをストーリーをもって実現することで成功に導く活動をしてい...

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野林徳行です。
「Spinart」にてマーケティングコラムの連載をさせていただいています。
アーティストのみなさんと接する機会も多いのですが、どんな人の心を揺らしたいのか、何を感じてほしいのか、人に言いたくなってしまうことはどうしたら起こるのか、そもそもあなたのアートによって人はなぜ幸せになるのか…答えは1つではありません。でも、常に考えていたいですね。そんな皆さんのヒントになれば幸いに思います。
65回目のコラムです。今回は、10月1日に、全身性トランスサイレチンアミロイドーシスによる心不全のため自宅にて死去されたアントニオ猪木(享年79歳)さんについて記します。


■ プロレスを見なくても誰でも知っているアントニオ猪木さん

私は、今年で58歳になります。子供時代には、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスと、アントニオ猪木率いる新日本プロレスが、金曜日・土曜日のゴールデンタイムに放送され、多くの人気番組が裏番組にある中でも視聴率20%を超えるような人気の時代でした。東京12チャンネル(今のテレビ東京)でも、ラッシャー木村率いる国際プロレスが月曜日の19:00から放映されていたのを覚えています。今は、長州力さんとか蝶野正洋さんなどがバラエティでも活躍していて有名だと思いますが、当時、日本で、「馬場と猪木」を知らない人はいたのだろうかというほど有名人でした。猪木さんは、1998年にプロレスを引退をされますが、その後も総合格闘技のプロデューサー、政治家としてもイラクや北朝鮮に乗り込むなど常に存在感が失われない方でした。いろいろなトラブルもあり、平凡に生きていくことは選択肢になかったのでしょう。ご逝去に関しても、日本中でニュースになりました。


■ 勇気と自信

私は子供時代、あまり社交的な方ではありませんでした。平均的でいよう、めだたないようにしよう、授業中は指されませんように…。それが、プロレス観戦がきっかけで強くなろうと思い始め、人前に出られるようになりました。さらにプロレスの延長で、ヘヴィメタルに目覚め、ステージに立つことで、存在していいんだという感覚を持ちました。「夢と希望」という言葉よりも、「勇気と自信」という実感値のある言葉を大事にしています。力道山が戦後日本人の魂を救った日本プロレスは私は見ていないのですが、力道山の弟子であったジャイアント馬場とアントニオ猪木がいなければ、プロレスの流行はなかったでしょうし、救われた人も少なかったのではないでしょうか。今でも、「週刊プロレス」と、ヘヴィメタル専門誌「BURRN!」は必ず毎号買い続けています。


■ 新日本プロレス旗揚げ

力道山にブラジルでスカウトされたアントニオ猪木。ブラジルの移民から志願しての(諸説あり)日本行き。日本プロレスには、読売巨人軍から入門しているエリートのジャイアント馬場がいました。エリートと雑草、この構図がずっとつきまといました。これが猪木さんの原動力でもありました。1971年に「会社乗っ取り」を理由に日本プロレスから除名されます。翌年に新日本プロレス設立。日本テレビと組んだ馬場の全日本プロレスとは違い、苦しいスタートながら独特の存在感で大きくなっていきます。プロレスというエンターテインメントを確立するという馬場のミッションに対して、猪木は、プロレスを世界で一番強い存在にするというミッションを持っていたように感じます。順調にプロレスが人気となっていくと、プロレス最強を示そうとします。


■ 異種格闘技

柔道のウイリエム・ルスカ、ボクシングのモハメド・アリ、2mを超える巨人アンドレ・ザ・ジャイアント、パキスタンの格闘家アクラム・ペールワン、空手モンスター・マン、熊殺しウイリー・ウイリアムスと、格闘界のチャンピオンとの異種格闘技戦は世界中から注目されました。この試み自体が当時でもよい意味のクレイジーでした。巌流島では、マサ斉藤とテレビ中継無しの時間無制限の決闘もしました。当時、アメリカのWWF(現在のWWEという世界最大のメジャー団体)との提携をしていましたが、全日本プロレスは、当時の最大団体NWAと提携しており、馬場はその組織でも重要人物でした。常に馬場が自分よりいい位置にいることも、他ではできないことに着手していった理由でしょうか。その後、馬場に何度も対戦要求を出していきますが、当時は日本テレビ・テレビ朝日の了承が必要ですし、テレビ局が協業するという時代でもなかったので、「もしトップが負けたら視聴率に影響する」ということで実現しませんでした。この異種格闘技戦略がなければ、UWFも生まれていないでしょうし、PRIDE、RIZINにつながっていくこともなかったかもしれません。


■ 元気ですか

1989年政界にうってでます。スポーツ平和党を設立して参議院議員出馬し、国会議員となります。国会質問で「元気ですか」をたしなめられますが、2回目、押さえよう押さえようとしながらも、また「元気ですか」と言ってしまいます。言わないと調子が出ないのでしょう。1990年、イラクのクウェート侵攻に端を発した日本人人質問題を解決しようと訪問、さらに平和の祭典を開催して、人質とともに帰国しました。1995年には北朝鮮にて「平和のための平壌国際体育・文化祝典」を開催しました。政治家たちは、この振る舞いに苦々しく思っていたようですが、何の成果も出さないまま慎重を続け、自分の立場が危うくならないことに執着している方々とは全く違う行動力を見せつけてくれました。


■ 波紋

プロレスで儲けていても、タバスコ事業やエネルギー事業などいろいろ投資します。順調な時ほど壊したくなってしまう性分にも見えます。「着実」という文字は辞書には載っていないのではないかと思います。破天荒だからこそ周囲は大変でしょうし、うまくいかないときのダメージは大きいです。自分の生き方の中に安定期というものがないのでしょう。でも結果的に、あまりにも多くの方が影響を受けて今頑張っている気がします。南極でプロレスをやるとか、キューバの沈没船を探すとか、たくさんのクレイジーなステキを描いていたようです。お亡くなりになる前の映像も公開されました。「なぜ弱った姿をみせる気になったのですか」という問いに対して、「見せたくないよ」と言いながらも、ベッドの上で闘う姿を見せてくれました。「まだやりたいことは?」に対しても、「いくらでもある」と言いながらも、「ごみを無くしたい」という野望も語ってくれました。

プロレスの逸話は、書ききれないほどありますが、これからもたくさんの書籍や映像が教えてくれることと思います。自分にはできないすごい生き方だなという感覚が一番残ったのでそのあたりを記してみました。我々は、漫然と続けてしまうことが多いと思います。奇しくも、今年亡くなった稲盛和夫さんも「燃える闘魂」を大事にしていました。「闘魂」というのは重い言葉ですね。成長が鈍化した時に猪木さんと「燃える闘魂」をいつも思い出すようにしたいと思います。今頃、笑顔で兄弟のように語り合っている猪木さんと馬場さんがいるのかなあと想像します。謹んでご冥福をお祈りいたします。

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