[ Spinart(スピナート) ] - あらゆる表現者・アーティストと出逢えるサイト

Logo Mark連載記事

Logo Mark「ステキ」をベースに考えるインディーズ・マーケの肝テキサスブロンコ テリー・ファンク死去

野林徳行

ヘヴィメタル、プロレス、モータースポーツをこよなく愛するマーケター。
常に、カスタマー(お客様)の心を揺らし、「ステキ」創りをストーリーをもって実現することで成功に導く活動をしてい...

続きを読む

野林徳行です。
「Spinart」にてマーケティングコラムの連載をさせていただいています。
アーティストのみなさんと接する機会も多いのですが、どんな人の心を揺らしたいのか、何を感じてほしいのか、人に言いたくなってしまうことはどうしたら起こるのか、そもそもあなたのアートによって人はなぜ幸せになるのか…答えは1つではありません。でも、常に考えていたいですね。そんな皆さんのヒントになれば幸いに思います。
86回目のコラムです。プロレスラーのテリー・ファンクが2023年8月23日、79歳で死去されました。「テキサスの荒馬」「テキサスブロンコ」と呼ばれ、スタン・ハンセン、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ジャイアント馬場、アントニオ猪木…と数々のトップレスラーと激闘を繰り広げ、日米プロレスファンの心をつかんだレジェンドレスラーです。アメリカのメディアによると、認知症の治療をしており、高齢者施設に入所していたとのことです。最後はパーキンソン病を発症し、痩せ衰えた車椅子の生活だったようです。個人的に大変思い入れがありますので、今回は、テリー・ファンクについて書きます。


■ テリー・ファンク初来日

アメリカテキサス州アマリロで育ち、兄のドリー・ファンク・ジュニアと共に、プロレスラーの父からレスリングの英才教育を受けて育ちました。私が、小学生の頃は、大ファンのテリー・ファンクをいろいろ調べたので、アマリロという地名には愛着があります。
1970年7月に日本プロレスに初参戦(日本プロレスは、力道山が旗揚げした日本最初のプロレス団体で、分裂して、みなさんも知っている全日本プロレス・新日本プロレスの元となった団体です)。回転しながら足首にダメージを与える「スピニング・トーホールド」や股裂きの状態で押さえ込み、リングを回り続ける「ローリングクレイドル」など、新技を次々と披露して人気となりました。日本のバンド、クリエイションの竹田和夫さんが作ったザ・ファンクスのテーマ曲「スピニング・トーホールド」は、プロレスファン全員の心に残っている名曲です。


■ ザ・ファンクス

1971年12月には、兄弟タッグ「ザ・ファンクス」で、馬場・猪木組を破り、インターナショナル・タッグ王座を獲得、1975年には世界最高峰と言われたNWA世界ヘビー級王座も獲得。兄と並んで史上初の兄弟世界王者となりました。1977年12月、世界オープンタッグ選手権(蔵前国技館)のブッチャー&ザ・シーク組との戦いは歴史に残るバトルで、ブッチャーのフォーク攻撃を受け、テリーは右腕を負傷し、大流血。それでも優勝を勝ち取った猛ファイトは伝説の一戦です。
私は、小学生低学年の時は、人としゃべることが苦手で自分の意見も言えない子供でした。この試合をきっかけに「強くなりたい」と考えるようになり、徐々にしゃべれるようになっていきました。現在は、講演や研修などしゃべる仕事をしています。今でも現在の自分があるのはこの試合の、そしてテリー・ファンクのおかげだと思っています。プロレス観戦もよくするのですが、ファンとしてもビジネスでもプロレスに関わるのは、「好き」という感覚よりも「恩返し」という感覚なのです。そして、このころの会場には、たくさんのキッズもいて、心の底から声を出して正義のヒーローを応援している光景が目に焼きついています。


■ テリー・ファンクのファイトスタイル

ワイルドさを強調したラフファイト主体のファイトスタイルなのですが、日本においては絶大なベビーフェイス(正義の味方)で人気を博し、アメリカでは地元テキサス以外ではヒール(悪党)として、各地のヒーローと流血の抗争を繰り広げ、業界誌の不人気部門(つまりすごいインパクトの悪役)では常に上位にランキングされていました。プロレスラーのファイトスタイルは、演劇のように役割があるのですが、子供の頃、あまり知ることのできない海外のプロレスニュースに触れるたびに、「なんでテリー・ファンクが悪党なの?」と思ったものです。アメリカの州は、日本の県よりも帰属意識が高いというか、地元のヒーローが大好きです。ヒールは、その州を罵ることで場を盛り上げ、外国人選手は、アメリカを罵ることでヒーローの存在を高める感じです。そういう意味では、戦後のプロレスは、降伏させられたアメリカ人のレスラーを力道山が空手チョップでやっつけるというストーリーでした。テリー・ファンクはアメリカ人ながら日本人ファンにとって圧倒的なヒーローであったこともすごいことです。


■ 晩年のテリー・ファンク

1983年蔵前国技館のスタン・ハンセン&テリー・ゴディ戦で現役を引退しましたが、翌年には復帰。1985年には、WWFと契約し、カウボーイ・ギミックのヒールとしてハルク・ホーガンなどと抗争を展開。また、プロレスの傍ら、俳優業も積極的に取り組んでいました。シルヴェスター・スタローン監督・主演「パラダイス・アレイ」にフランキー役で出演したり、「オーバー・ザ・トップ」など数本の映画やドラマに出演しました。引退、復帰を繰り返しながら、インディー団体で、ハードコアマッチやデスマッチへ挑戦するなど活躍を続けました。超一流のレスラーとしての名声を得た後でも、新しいことに果敢にチャレンジする姿勢は、「リビング・レジェンド」と讃えられていて、世界最大のプロレス団体のWWEでも殿堂入りしていますし、WWE全選手がテリー・ファンクの死を悼みました。ファイトスタイルが、多くのファンに勇気を与えることになり、漫画「キン肉マン」に登場するテリーマンのモデルにもなりました。今のプロレスラーは、キン肉マンを見ながらプロレスラーになることを夢見てきた人が多いようです。


前述もしましたが、私は、テリー・ファンクの試合を見ていなければ、プロレスファンはおろか、人前で話すようになったかどうか、もっと言うと果たして生きていたかどうかとさえ思います。アスリートやアーティストがいろいろ悩んだり、うまくいかなかったりする人に与えてくれる「勇気と自信」のパワーは計り知れません。テリー・ファンクは、激しい試合が多く、膝などはボロボロで晩年はロングタイツでだましだましやっていました。日本のレジェンドプロレスラーもリング外では、満身創痍で生活している人も多いです。それでもプロフェッショナルとしてファンの心を揺らすために、リング上では輝きます。どこまでも輝く強い気持ちが、ステキなオーラを作っている気がします。ビジネスアスリートもぜひ参考にしたいですね。

テリー・ファンクのご冥福をお祈り申し上げます。

この記事への感想はこちらへどうぞ

この記事への感想を送る


野林徳行

ヘヴィメタル、プロレス、モータースポーツをこよなく愛するマーケター。
常に、カスタマー(お客様)の心を揺らし、「ステキ」創りをストーリーをもって実現することで成功に導く活動をしてい...

続きを読む

関連記事

準備中