2023/06/15
6月12日が自分の誕生日ということもあって、まぁもういい歳なので誕生日に一つ歳を重ねる度に自分の残りの時間なんてものも頭をよぎったり、都度なんらか思うことがあったりもして、それに加えて最近、以前に増してこういうことを思う機会もけっこうあって…まぁ…Spinartのアートや表現のお話にどこまで関連しているかは分からないけど…これまでも思ってはいたことだけれどもちょっとモヤモヤしていたことを整理してみたいなんてことも思ったりして、書いてみました…という感じです。まぁ重いというかセンシティヴな内容でもあると思うので、こうした話題を読みたくない方はどうぞここで画面を閉じていただければと思います。ご興味ある方は是非ご一読ください。あ、それにそこそこ長文なので、お時間のある時に読んでいただくのがいいかもと思いますし、まぁ名もなきくたびれたおっさんの戯言でもありますので、お忙しい方の時間を浪費させてしまうのもなんですので、お時間のない方等々は是非スルーしていただくのがよろしいかと思います(こんなことを書いているからさらに長くなるんですけどね…)。
自分としてもまぁこんなことを書いたりすると、またうつ病が悪化してるんじゃないの?…なんて自分に対しても警戒心が出たりするけど、とりあえずまだちゃんとロジカルには考えられていると思うので、多分大丈夫かなと思ってもみたり;;;
さて、日本という国は(少し前よりはやや減ったとは言え)年間2万人超(3万人近くという表現の方が正しいかも?)もの自殺者がいて、それ以外でもけっこう有名な方なんかが自殺で亡くなったりすると、まぁ決まって、
「死んじゃダメ。」
「死にたいと思ったら是非相談を。」
なんていう文言が飛び交うわけだけれども、その度に思うのは、少なくとも「ダメ」ってことはないだろうということだったりするんですな。
だってさ、もし自分が本当に死にたいと思っていたら…いや、それが単にポーズでね、本当は死にたくないのに構ってほしくてそう言ってるとかなら別だけど…本当に死にたいと思ってたら、死ぬこと自体がダメとか言われても、
「え? なんで?」
としかきっと思わないんじゃないかなと。
これさぁ、その「ダメ」な理由をちゃんと答えられるのかなぁ。まぁ聞いたことがある理由だと、
「せっかく産んでもらったんだから自分で死ぬなんてダメでしょ。」
なんていうのがあったけど、これなんか超的外れだとしか思えないもんなぁ。だってさ、「産んでもらった」って言うけど、少なくても自分から「産んでください」とお願いした覚えなんて微塵もないし、自分の知っている範囲の知識で考えるなら、自分が生まれた理由なんて単に親父とお袋がセックスしてその結果受精してそれを産むと決めて産んだだけじゃんと…自分の意思なんてそのどこにも介在していない。だから「産んでもらった」という認識がないんだよなぁ。ましてこの世に生まれて良かったなんて思ったこともないし、生まれてこなければこんな厄介なことをそもそも知らなくて済んだのになんて思うことの方が多いし…。
実はこの話、お袋から直接言われたことが何度かあって、まぁよくある「産んでやった」な話なんだけど、まぁこのシチュエーションではそのすべてが揉めている間に発せられた言葉なので、こっちもだいぶ頭にきてるからだいぶはっきりと答えてみたりしている。つまり、
「産んでくれと頼んだことはない。」
「産まないという選択肢はあったはずだ。」
「産むと選んだのは親側だ。」
「実際に俺の前に一人堕ろしてるって言ってたじゃんか。」
「こんな世の中にこんな状況で産み落とされて俺が幸せだと感じていると思うな。」
とかなんとか。まぁうちのお袋は自分の敗北を認めるのが大嫌いという困った性格な上に、その闘争において自分が勝てる見込みがあるのかないのかを判断することができない愚か者だったりするのでさらに「育ててやった」だの「自分だけで育ったと思うなよ」だの「こんな子に育てた覚えはない」なんてことを言い出しちゃったりもするわけだけど、それに対しても短めに切り返してみたりする。つまり、
「産んだのが親たちの意志であるなら育てるのは責任で普通。むしろ育てない親が異常。」
「俺をどのような人間に育てるかについては育てる側でいろいろな選択肢が取れたはずで、結果良くない人間に育ったと思うのであればそれは自分の教育の失敗。」
とかなんとか。
おっと…だいぶ横道にそれたけど、つまり生まれたことについて言えば少なくとも自分が望んで生まれたというわけではないのだから、それを無理に継続しなければならない理由なんてなにかあるのかということを思ったりするという次第。
いやね、自分が生きたいと思って、自分がなにかをやりたいと思って、だからそのためにいろいろな方法で生きていこうとして、結果不本意に死んだ…というのは辛いし悲しいことだと思うよ。だって望まない死だもの。そのもっとも端的な例としては戦争のことが頭をよぎるわけだけど、つまり、国の権力者同士が勝手に始めた戦争があってさ、自分はそれに賛成してなくてさ、なのに、敵の攻撃を受けて死んだり、場合によっては反対者として投獄されて味方であるはずの同国人に殺されたりなんてことが起こるじゃない。こういうのは本当に理不尽だし最悪だと思える。
しかし自殺について言えば、それを決断するに至った過程にはいろいろと不本意な思いがたくさんあってのことだろうとは思うけれども、しかしそれを選択することによって自分はラクになれると思えて、積極的にそうしようとしている人の判断や行動を、ろくに大した理由や哲学もなく否定して押しとどめようなんて、こんな不遜な話があるかと思うんだよなぁ。
「じゃあそういう人は死んでしまえばいいと思ってるのか?」って? う〜ん…いいとは思わないけど仕方ないよなぁとは思うなぁ。だって自分はその人がそういう判断に至るまでにその人を助けることはできなかったわけだし。それにこの世の中、仕方ないことってやっぱりどうしてもあるでしょ。その類だと思うだろうなぁ。いやもちろん、その人が自分にとって大切な人で、その人が自殺したなんてことになったら、きっと自分が死ぬまでずっと頻繁にそういったことを思い出しては後悔したり解決しない疑問の中でぐるぐるしたり沈んだりいろいろしちゃうと思うよ。でもさ、だからってろくな説明もできないのに「自殺なんてダメ!」なんて無責任なことは言えないって思う。じゃあその人がその自殺を思いとどまったとして、しかしそう思った原因となったことについて解決できず、かつ辛い状態がまたつづくことについて自殺を止めたその人はケアできるのかって話だもんね。どうせできない…てか多分しないでしょ。その人が死ぬのをやめて生きることを選択したらそれはそれで「ああ良かったね」めでたしめでたしで終わりにしない? その人にとってはきっと、それからがさらにしんどいことになるんじゃないかと思っちゃうんだけどなぁ…。死ぬということについてその程度の認識しか持てないような奴はしょせんその先のことなんてイメージもできてないだろうから、本当に結局ただ言い放っただけなんてことになるってことだと思うよということなんだよねぇ。
だからさ、しょっちゅう言うわけよ。
「根拠のないポジティヴになんて微塵も意味はない。」
「その程度のポジティヴで救われるような悩みならそいつの悩みなんてたいしたことじゃない。」
って。これは本当に思ってます。
さて、こういったシチュエーションでしかし唯一できることがあるとは思ってる。それはまず話を聞くこと。その人が、なんで自殺したいと思ったのか、その理由をしっかり細部に至るまで聞いて、すぐに解決案なんて出てくるはずもないとは思うけれども、少なくとも原因となったことについての共通認識くらいは持つことができる。
これはねぇ、なかなかできないよ。だって他人のそんな楽しくもない話に付き合うなんてまぁたいていはできないしやってくれない。自分の周りでそれができそうだなぁと思う人はまず見当たらない。だってきっとこの文章を読むだけでも充分に閉口してるだろうしひょっとしたらここまで読んでもいないかもと思うもの。
儲け話とかさ、そうでなくても前向きに見える話については、まぁ聞く人がいるのよ。セミナーなんかでも、自分とはかけ離れた境遇にある人の成功話なんて物凄く人が集まったりして、しかも無駄に何時間も聞いたりするでしょ。まぁそれ自体が楽しかったりワクワクしたりするってことなんだろうけど、あわよくば自分も同じように成功したいなんて思ってたりするんだろうし、場合によっては成功したその人と繋がってその人の成功に乗っかりたいなんていう輩もいて、まぁだからそういう話は聞く奴がけっこういる。
ネガティヴな話は聞かないよ〜。まぁ本当に聞いてくれない。「傾聴なんとか」なんていう資格を持ってるような人でさえろくに話も聞かないで過去事例にあるいくつかのパターンに当てはめて済まそうなんてことをする人がいたりする。まぁそれだけネガティヴな話は聞く側の心も削られるってことかもしれないけれども、しかしその相手に死んでほしくないと本当に思うのであれば、聞くくらい、やらなきゃ自分が後悔するって少なくとも自分は思ったりする。
もちろんこれは相手による。自分が、その相手に死なれるととても嫌だと思っている場合に限定。じゃなきゃ相手の辛い状況に寄り添って自分ごととして聞くなんてこときっとできないだろうと思う。つまり、そう思わない相手については死んじゃっても仕方ないと思ってるということになるし、この聞くという行為も結局、相手のためということもありつつ、その人に死なれると自分がとっても嫌だからというつまりは自分のためでもあるという…まぁこんなことを考えていると、自分の中の利己的な部分に改めて気付いたりして、吉田拓郎の「人間なんて」が頭の中でリフレインしたりもするんだけれども、でもそれってみなさんも多くはそうでしょ?と思ったりする。
だって、多くはネガティヴな話を聞いてくれない状況を考えれば現象と合っていると思うけど。
でもね、気持ちは本当に分かるのよ。だって聞いたからにはそれで終わりにならない可能性がいきなり跳ね上がるわけで、場合によってはそこからいきなり一蓮托生、その人が自殺を考える原因になった問題と一緒に向き合うことにもなりかねない。だからそりゃ慎重になるし、自分から見て本当に大切と思える相手の中でも本当に本当に大切と思えるほんの一握り限定になるのだって当然と思う。だってそんな他人の問題なんてそうそう簡単に背負えるものじゃないものね。これも仕方がない。だって自分だって自分の暮らしで一杯一杯なんてことも多いんだから。
そんな中でもできることってなんだろうなと考えれば、やっぱり一生懸命一緒に考えてできることを見つけてやることかなと。もちろんなんでもかんでも解決できるわけではないけれども、しかしその人と同じレベルの重さで考えて、そしてなにかしら対策方法がないかを一緒に考えることに意味があると思うんだよね。
考えていくことで新たな可能性に気づけるかもしれない。考えていく間の時間で最悪の気持ちだけでも回避できるかもしれない。一生懸命考えたら少なくともやり切った充実感の中で納得して、もしかしたら少なくとも自分が孤独ではなかったと思いながら死ねるようになるかもしれない。この最後のは結局自殺するという選択を止めることはできていないけれども、しかしそれでもだいぶ意味は違うだろうと…いやそれはもちろん関わった側の自己満足かもしれないけれども、それでも、考えられる限り考えてやれる限りやってそれでもダメなことは世の中にあるので、やはりだいぶいろいろな面で救いになるのではないかと思う(まぁ「救い」自体主観的なものだと思うから定義できるようなものじゃないとも思うけどね)。
なのでみなさん、もし自分の周囲に死にたいと思う方がいたらまず、その人の話を聞いてあげたいと思うかどうかを判断した上で、そいつが死んでもまぁいいやと思えない場合は、話を聞くことをやってみていただければと思います。もちろん自分も、できる限り話を聞いてできる限りいろいろやろうと思います…その人に死んでほしくないと思う場合は。なので、そいつが死んでも別にいいやと思っている場合は話を聞かない可能性もあるということでその点はご容赦ください。そして願わくば、もし私が死にたいと思っているような場合に、できれば話を聞いてほしいなと…まぁあなたが私に死んでほしくないと思った場合においてのみでけっこうですが…つまり、死んでほしくないと思ってもらえるように生きていかないといけないということですかね。それが生きるってことなのかなぁ…。
とまぁそんな感じでだいぶ論としては怪しいところではありますが、こうした情報に触れるたびにモヤモヤしていることを吐き出してみました。
みなさんはいかがお考えですか?
…そう言えばさ(終わらないんかいw)…よくドラマとかでさ、
「ダメだったとしても一からやり直せばいい。」
とか、
「いくらでもやり直しは効く。」
なんていうセリフがあるけど、これもどうかなぁと思っちゃうんだよねぇ。
だって失った時間はもどってこないから、つまり完璧にやり直せるわけじゃないじゃん…っていうのが一つ目のツッコミどころ。そしてもう一つが、できるかどうかよりも当人にそれをやる気があるかどうかってことじゃん? どんなに困難でも、当人にリトライする気があるなら自殺しようなんて思わねぇんだよ…って思っちゃうんだけどなぁというところ。なので、これまでも書いてきたように、ちゃんと話を聞いた上で、的外れではない、ちゃんとその人の問題に寄り添ったことを一緒に考えるという姿勢が大切と思う次第です。で、その人がもう一度なにかをやってみようと…小さなこともいいからね…思ってくれるようになれば、また状況は変わるんじゃないかと思います。
まぁ、こんなことを思ってるだけじゃなくて実際に言っちゃうから嫌われるんでしょうけどね。
そうそう…(まだ続けるんかいw)、こういう死にたくなるような感情も、実はとても貴重なコンテンツやアート表現になると思うんですよ。ですので、もし可能であればだけれども、そうした思いや、そういうことを思うに至った過程や、そこまで具体的ではなくてもその感情等々を、散文でもいいし、可能であれば、俳句や短歌とか、歌詞とか、音楽の音そのものとか、絵とか彫刻とか粘土細工的なものとか、踊ったり暴れたり叫んだり…いや、ぶつぶつと呟くだけでもいいから動画として残したり、もうなんでもいいので表現してみるというのもいいと思ったりはしてます(無理やりSpinartな話に寄せようとして言ってるわけじゃないですよw)。そうした、あまり多くの人が経験したことがないであろう思いや感情は、そうした表現の源泉としてとても貴重だし、それをなにかに残さないなんてもったいないなんてことも思ったり…。
まぁこの世の中、ポジティヴバカ(…こういうことを書くから嫌われるんだってばw)が大勢を占めているのも確かなことだし、とかく重い話題は忌避されがちなので、なかなか大多数の支持を得ることは難しいかもしれないけれども、しかしそのような想いに共感を寄せてくれたり、同じようなことを悩んだり苦しんでいたりという人はきっといるだろうとも思うんです。だから、そういう表現でもきっと誰かの役には立てると思うし、人の心の営みとしては、普段なかなか表に出てきにくいことだけにより一層意義深いとも思います。ですので是非ね、そんなことも考えてみていただければ、また別の窓が開くかもなんてことも思ったり…まぁ、これもケースbyケースか…やっぱり話を聞くのがスタートだろうなぁ…。
つまり書いてる本人もまだ思考の途中だってことなんですよねぇ…。長々とすみませんでした。
※ちなみに写真は…この写真は古いぞ〜確か2005年頃に撮影したもの。
見上げたら見事に雲がそこでパッキリ終わっていて、まるで「はいここまで」という境界があるようだった。しかもそこに太陽があって雲の淵が光ってて神々しかったなぁ…ということでこの写真に当時つけた名前が「地球の二日目」。聖書の創世記あたりをイメージしたのかも…ちゃんと覚えてないけどw
※使用カメラ&レンズ:Canon EOS 50D + Sigma 70-300mm F4-5.6 APO DG
準備中