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Logo Mark連載記事

Logo Markなにか創るとうれしくてアートってなんのためにやるんだろうね

紫水勇太郎・清水 豊

株式会社4DT 代表取締役
株式会社ワークス 代表取締役
Spinart運営者
YouTube「うさぎのうみちゃんねる」のおじぃ
YouT...

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 音楽でも、絵やイラストでも、動画でも、立体造形物でも、文筆でも、パフォーマンスでも、まぁなんでもいいとは思うんだけど、こういった表現ってのは、いったいなんのためにやるんだろうなぁなんてことを、ふと、考えてみました。
 きっと答えなんて簡単に見つからない問いなのはかなりそうなんだろうなと思いつつも、その根本にあるものってなにかなぁなんてことを考えてみると、今やられている多くの表現の向かう先みたいなものがもう少し見えるような気がしてしまって、自分からズブズブな沼に入っていっているような、そんな感じです。

 そもそも人間って、太古の昔からこういった表現はしていたわけで、残っているものとしてはラスコー洞窟の壁画なんてものが有名なわけですが、これも、一生懸命写実的になにかを描こうとしたというよりも、最初からどことなくデフォルメされているという感じがしなくもなく、それは当時の人類の認識能力や技術の限界だったのかも知れないけれども、逆にもし敢えてこういう表現を選んだのだとすれば、これもかなりアートな表現かも知れないなんてことも思うという次第です。

 でもこれっておそらくは、当初なにかを伝えたくて絵を描いて見せたりするようになっていったら、誰々の絵って上手いよねみたいになことになって、そう言われた人がそこに自分の他者とは異なる存在価値みたいなものを感じて、その後さらに描くようになってさらに上手くなり、結果、もっぱらそれをやるという人が出現してきた…みたいな感じかも知れないなぁなどと想像してみたりします。
 だってきっと個人差があっただろうし、当時の人だってきっと、褒められたらうれしかっただろうし、うれしいことはきっと繰り返しやるようになったんじゃないかななんて思うし、繰り返しやればそりゃ上手くなっていくんじゃないかと。
 そしてやがてその手法が模倣されて広がっていく…みたいな感じかなぁ。

 なのでおそらく当初それは、自分が伝えたいことを伝えるための手段からスタートしたのではないかという、まぁ底の浅い一つの仮説です。
 それがいつしか、なんらかの事実を伝えるだけではなくて、自分の感情的なものを表現する手段として使われるようになって、その感情というものが抽象的なものであったことによって、それをなんとか表現しようとして表現手法も多様化していった…みたいな?

 そう考えると、こうした表現には当初から「他者に知ってもらいたい」とか「理解してもらいたい」とか「共感してもらいたい」なんていう欲求は入っていたかもしれませんね。
 実はここにアートの根源があるかもしれないなんて思う次第です。
 だって、自分の内なるものを開示して他者に見てもらうという必要性がなければ、なにもわざわざなんらかの形態として表現する必要はなくて、単に自分の中だけでブツブツ自己完結していればいいということになりますもんね。

 しかし現代の表現ってのはもっと複雑化しているというか、上記のようなシンプルな感情では成り立っていないようにも思います。
 だって別に誰かに見て欲しいなんて思ってなくて、単に自分がそれを作りたくて作ってるだけ、なんてことを言ってる人も時々見かけますもんね。そしてそういう、つまりは作ってる過程が楽しいとか、自分の中に湧き上がってるなんらかを外に出さないと気持ちが悪い(もしくは出すことで気持ちがいい)というような感情もなんとなく分かる気がするだけに、そこはちょっと一筋縄では行かないなぁと思う次第。
 つまりいろいろいるってことかな…。

 でもそういう人たちでも褒められたりしたらうれしいよね、きっと。そんなことないのかな。
「あなたの絵、すごい大好きです!」
 とか言われてもうれしくなかったりするのかな。いや確かに、うれしそうにしないというスタイルの人はいるように思いますけど、そういう人たちが本心からまったくうれしくなかったりするのかという点については正直疑問を感じています。つまり、そういうスタイルはちょっとしたポーズ(もしくはスタンス的なもの…または照れもあるかも)であって、実は内心ちょっとはうれしいという感情が生まれてるんじゃないかなと思うんですが、どうなんでしょうねぇ。
 まぁこんなことを書くと、
「自分は全然うれしくない!」
 なんてことを言ってくる人もいそうかもと思いますが、それもね、言葉通り信じられないというのが人間の奥の深さかも知れないと思ったりする次第です。なにせ心の本当のところは、脳波の機械にでもかけない限りは見えませんからね(まぁ今はそういった機械で見ればある程度分かっちゃうから逆にすごいんですけど)、表層の言葉をそのまま信じていいかどうかは、こういった考察の際にはまったく信用ならないと思ったりする次第です。

 この「褒められる」ということが拡大するとそれが現代のビジネス的なものにつながっていくのか…それがさらに別のステイタスにつながったりしてということか…なんかそういった流れに乗ってるとドーパミンがドバドバ出てそうだなぁ(苦笑)。
 まぁこの方向に行くとちょっと根本からずれそうとは思うものの、しかし根本は「褒められてうれしい」だとすれば、そこにあるのは他者とは違う、もしくは他者より優れている自分の確認ということかもしれないなぁ。
 言い方が回りくどいですかね…つまり、「他者より優れている自分」っていうのは、例えばスポーツや学校の成績や営業マンの売り上げのように数値的な記録として出るとかでもない限りは、なかなか確認しにくいことだったりするのかなと思うんですね。話をシンプルにするために太古の時代を例にすれば、例えばたくさんの獲物を捕まえてこれる人は多分、数値としてその優秀さが見えやすいからきっとそれでよくて、そうではない人の中から、しかし別の方法で自分の秀でている点を表現しようとした…それが絵とか音楽とかだった…みたいな感じかなぁ。いや、最初はたまたま周りから褒められて気づいたと言うことかも知れないけど。

 だとすれば、大きく以下の2つに分けられそうにも思います。
 1. 先人たちを超える自分独自の新しいなにかを産み出すパターン。
 2. 先人たちの卓越した技術を見事に模倣して見せて、技術的な優秀さを表現するパターン。
 前者はまさに自分のオリジナルを追求して、なんらか新しい手法だったり技術だったりを産み出していく人たちで、後者は例えばすごい人たちの演奏や描画方法などを見事に再現してみせることで自分もうれしいし他者からも評価されるみたいな…かな。
 もちろんその両方が入り混じっていて、その比率がどうなの的な話かも知れないけれども。

 しかしいずれにしても、自分の表現手法を磨くという行為がベースになりそうかもしれないとは思いますねぇ。まぁ、自分だけで喜べるという人については、自分の中のハードルの高さがその基準になるということかと。

 あ~あ、ほら、やっぱりズブズブになった(苦笑)。
 でもね、少なくとも思うのは、他者に評価されることと自分が喜べることについては、おそらくそれは両輪ということのような気がするので、その両方のバランスが取れてることがいいと思うし、その上で、現状どちらを優先するかみたいな判断はそれぞれありながらも、その優先順位に従って磨いていくという方向は一緒なのかも知れないなぁと思う次第です…あれ?…ちょっと論点がズレたかも?…やっぱズブズブだわ。

 ということで、こんなことを引き続き考えながらも、ではどのように磨いていくことができるんだろうなんてことも、ボチボチ考えていきたいと思います。

※ちなみに写真は、栃木県日光市・中禅寺境内で撮影したもの。
※使用カメラ&レンズ:Canon EOS 6D + EF24-70mm F2.8L II USM

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