2024/08/25
物事なんでもそうだが、少しの違いが大きな違いになって現れる事が多いとつくづく思う。
先日、習っているパントマイムのレッスンで“現実から夢の世界に入り現実に戻る”小作品を作るという課題がでた。
具体的にはどんな作品でも良いのだが、私が考えた冒頭は、
“寂しくカップラーメンを買って帰ってきてお湯を入れて待っていたら、ドレスを着た女王になっていた”
というシーン。教えて頂いた「現実から夢の世界に入る」動きも勿論組み込んでやっているつもりだが動画を撮影すると全くその瞬間、夢の中に入った感じがしない。本人は一生懸命真似ているのにだ。
「手から動いてすぐ直後に胴体が動いて、足が1、2歩と出る。そしてその繋がりで周りを見る。」
口で言いながら動いてはみるものの、リズムかなんかが違う様な気がする。
それはわかるのだが、残念な事になかなかそう上手くはいかない。
教える方はもうそのリズムや身体の使い方が出来る肉体になっていて、理屈ではなく当たり前に動きが身についているのだ。マイムでは日常あまり使わない筋肉を使うことも多くて、鍛えていないとそれが発揮できない。大体の部分は通常使う筋肉の動きでカバー出来るが、肝心な所でその筋肉力を必要とする。それが不思議に見えるポイントだそうだ。ほんの少しの部分だが、それが出来るか出来ないかで、表現された姿が物凄く違うのだ。
少し前の事であるが、私の教えている朗読でもこの様な事を思った記憶がある。
朗読の基本として滑舌が良い事、声が聞き手に届く事、正しいアクセントなどが基本にあるが、アクセントの事はともかくとして滑舌や声の大きさだけでは思い通りに伝わらない。
全ての音一粒一粒をはっきり出してしまっては駄目なのだ。それでは言葉ではなく、音になってしまう。かと言って不明瞭に出すという訳ではない。言葉や文章にはリズムが存在する。
何年か前朗読サークルで私が作品を読んだ時あるサークル生の方がこんな事を言っていた。
『先生の読み、微妙に(読む箇所によって)スピードとか変えているんですね。』
勿論意識して強調したりもするが、その箇所以外でも言葉で言い表せない位音の高低、音質、リズム、スピードが変わる。
文章の雰囲気だったり、単語を含めたその辺りの感じだったり(ただし文章の語りである地の部分の一単語を変に強調したりするのではない)。
朗読を続けているとなんとなくそちらの感覚的なものが自分なりに表現となって出てきたのかもしれない。
学生時代国語が大の苦手だった私がこんな事を語る様になるとは、ほんとうに不思議なものだ。
話は変わるが、先日、映画「もしも徳川家康が総理大臣になったら」を観てきた。私は徳川家康をやっている狂言師野村萬斎さんが見たくて行ったのだ。ギャグ要素が多い映画の中でほんの少しだけ野村萬斎さんが舞っていた。そしてそれと合わせる様に別の役者さんも舞っていた。おそらくその役者さんもなかなかお上手に動いていらしたので、もの凄く練習なさったと思う。しかし狂言が身に付いている萬斎さんと並べると、当たり前だが明らかに違いが出る。安定し鍛えられた体幹から出てくる気迫、静と動と。動きとしては間違っていないが、明らかに違う。
ほんのちょっとの違いなんだと思うのだけれど…。
10月14日(祝•月) 14:00時開演
場所:ティールーム パ•ド•ドゥ
栃木県宇都宮市吉野2-3-15
料金:3,000円(ドリンク付)当日支払い
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