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Logo Mark連載小説・空虚な石(仮)1. 母(5)

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アーティストを支援するサイト「Spinart(スピナート)」が、小説系の文筆を志す方のコンテンツを、トライアル的に展開するのがこの「文芸部」。
まずはこちらで連載開始し、いずれここ...

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 父はあれから毎日ちゃんと仕事には行っていた。僕に負担をかけないようにしているのだろう。たいていは食事も外で済ましてきていた。だから帰ってきてすることと言えば、ラフなスエットに着替えてソファに座り、一杯だけの芋焼酎を飲みながらテレビを見るだけだ。そしてたいていはそのまま寝てしまう。
 それでも、中2階の和室にほぼ籠もりきりだった何日かを思い出せば随分といい。男同士ということもあって、あまりたくさんは話さなかったが、それでも少しは話ができるようになっていた。
 この日も夜、それもかなり遅い時間になって帰ってきた。いつものように着替えて、仏壇の母の写真の前にちょっとだけ座り、その後キッチンでグラスに氷を入れてソファに沈む。そして芋焼酎の黒いボトルのキャップを開けて注ぎながら、僕がつけっぱなしにしていたテレビに目をやっていた。
 僕はキッチンのスツールに腰掛けてiPhoneを操作していた。テレビは点けていたがまったく見ていない。iPhoneで見ているのはあの人のFacebookのアカウント。タイムラインを追っていくと、この近所にいた形跡が数多くあることがよく分かる。そして間違いなく、今現時点でもこの近所に住んでいる。その思いはもはや確信に変わっていた。
 基本データにはあまり多くのことは書いてない。音楽をやっている。アルバムが数枚出ている。それ以上の記述はない。居住地も出身校も登録されていなかった。
「なぁ…。」
 父が低く声を発した。
「チャンネル、変えていいか。」
 父がそんなことを言うのは珍しい。僕がその番組を見ていないのは一目瞭然だったから父にとって退屈でしかないその番組を見ていること自体が馬鹿らしく思えたのだろう。僕が応えると父はやや遅い動作でリモコンを操作した。52型の大きな画面がチラチラと変わる。父はチャンネルが一周しても見る番組を決めかねているらしく、さらにもう一周させた。
「さっきから真剣になに見てるんだ?」
 一度通り過ぎたチャンネルにもどして止めてから父が言った。言われてから少ししまったと思う。この画面を父に見せることはできない。父は言い終わるとグラスに口をつける。グラスの中の氷がカラカラと鳴った。
「ん?…うん…Facebook見てる。」
 気まずさを悟られないようにそれだけ応えた。
「Facebook? おまえら若い奴はLINEじゃないのか…。」
 言いながら父の視線は変わらずテレビだ。そして定期的にグラスを傾ける。その様子を上目遣いにちらりと確認すると僕は少しホッとした。恐らくなんとなく言っているだけでこちらに興味はない。いつも交わす数少ない会話の一つでしかなく、それはたいてい他愛もない。だから僕はそのままそのページを見続けていた。
 突然父が立ち上がる。僕は正直ドキッとしてその父に目をやる。しかし父はそのままキッチンに向かい、冷蔵庫の中をのぞきんこんでいる。なにかつまむものが欲しくなったのだろう。とはいえもう、冷蔵庫の中にろくなものは入っていないのだが。
「おまえそれ…。」
 安心して画面を見続けていた僕の横からいきなり話しかけられた。僕はあからさまに驚いた反応を示してしまう。そこには父が、こちらの画面を覗き込んでいた。
「あ…いや、これね、あの…この前のね…ぐ…偶然見つけちゃったから…。」
 返答はしどろもどろだ。それに対し父は一言だけ言った。
「あいつか…。」
 言うとまたさっきの場所に戻って座る。そしてそれ以上はもうなにも言わなかった。僕はその横顔を見ている。テレビの画面が反射してめまぐるしく色の変わる父の横顔。しかしその表情に色はなかった。瞬きも少なめに、ただテレビに目を向けている。その姿はまるで固まっているかのようだった。
 僕はその横顔を見ながら、自分の跳ね上がった心拍数を抑えようとしていた。もうiPhoneの画面を見るどころではない。父の様子が気になって仕方がない。気づかれないようにとは思いつつも、ずっと父を見ていた。
 父は動かない。ただじっとテレビを見つめ続けている。さっきまで定期的に口に運んでいたグラスもテーブルの上に置かれたままだ。
「父さん…。」
 耐えられずに声をかけた。それも、普段とは違う呼び方をしてしまった自分に気づき、せっかく抑えようとしていた心拍数がまた上がるのを感じる。父は、比較的大きめの目の中の瞳だけを一瞬こちらに動かしたがまたすぐに元の場所にもどした。なにも言わない。僕もそれ以上なにを言えばいいのか迷ったままなにも言えない。しかし声はかけてしまった。次の言葉をなにか言わなければとさらに焦る。
「あの…この人…ミュージシャンなんだね。」
「知らん。」
 あまりに早い返答に驚く。僕はもうそれ以上の言葉を発することができない。思わず唾を飲み込む。そして、やはり言うべきではなかったという思いに支配された。父はそれきりまた黙り込み、しばらくそのまま時間が流れる。部屋にはテレビの中の乾いた笑い声だけが響き渡っていた。いたたまれない気持ちで僕はiPhoneを閉じ、立ち上がって階段に向かう。
「ごめん…おやすみ。」


連載小説「空虚な石(仮)」をまとめて読む
1. 母(1)
1. 母(2)
1. 母(3)
1. 母(4)
1. 母(5)
2. 黒い人
3. 叔母
4. 父
5. 薫
6. 里奈

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